仏教の「信」は、手を合わせてお願いをする信仰では無く、ブッダの法を理解、納得、実践して確信する。です。
豪華絢爛に装飾された仏教の扉を開け、奥に光り輝くブッダの真髄を取り出す道具(方法)を紹介します。
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
プッタタート比丘(三蔵の中のダイヤモンド)より抜粋
http://space.geocities.jp/tammashart/book-sanzou.html
タンマを信奉する時、自由であって下さい。その為に、仏教の中のダイヤモンドと、ダイヤモンドを掘り出す道具の両方を差し上げます。これから差し上げる物を、仏教の中のダイヤモンドと言います。つまり、タンマを受け入れ信奉する上での最高の自由です。
「カーラーマ経」には、仏教を信奉する上での自由が述べられています。
それは最高の自由であり、最高に民主的です。
内容は、カーラーマの人々が、「どう受け入れたら良いのか分から無いほど、色んな教義を教える人がいるので、どうしたら良いでしょう」と質問した事に対し、ブッダが、カーラーマ経の十項目と呼ばれている物で答えた物です
初めの三項目は聞いたこと、或いは勉強した事に関してです。
1.長く言い伝えて来たからといって信じてはいけ無い。
2.長く伝承されてきたからといって信じてはいけ無い。
3.評判になっているからといって信じてはいけ無い。
4.経典、或いは教本の中にあるからといって信じてはいけ無い。
仏教の場合、タラバヤシの葉に書かれた教えの束を教典と言います。仏教の初期にはまだ教えを書き留める事さえなく、数百年物間、記憶と口伝によって継承されて来て、その後文字で記され、経典として編纂されました。それまではただ「法」「律」と呼び、耳で聞いて暗唱し、記憶しておくだけでした。経典については第四項だけです。
つぎの四項は考え、或いは考える時の理由に関してです。
5.現在 logic と呼ぶ論理的方法で考えて、信じてはいけ無い。
誰かの教えが論理的に正しくても、その理論自体が誤りであったり、理論の用い方が誤っている事もあるので、直ぐには信じてはいけ無い。
6.意味的に理論に合っているからといって信じてはいけ無い。
ブッダの時代に「意味」と呼んだのは、今西洋で言う Philosophy、私達のタイ語では哲学と言います。呼び方が違います。哲学は Philosophy ではありません。
Philosophy は一つの見方であり、まだ哲学ではありません。しかしその様に呼ばれているので、Philosophy の様な考え方を、実践する教えとして信じる道具にし無いで下さい、と言う事です。
7.状況によって信じてはいけ無い。
つまり、常識と呼ばれる気軽に考える習慣に従って信じてはいけ無い。現在人は好んで常識と言う言葉を使いますが、仏教では、ブッダがこの項目で禁じているので、使う事はできません。
8.自分の見解に耐えられるからといって信じてはいけ無い。
自分に何らかの見解がある場合、相手が自分の見解に合う様な説得をして来ても、直ぐには信じてはいけ無い。何故なら自分の見解が間違っている事もあるから。
残りの二項は話し手、或いはその教義を説く人に関してです。
9.話す人が信頼できそうだからといって信じてはいけ無い。
この項目は、話す人の言葉や態度が信頼できそうだと言う意味です。
10.話しているサマナ(出家)が自分の先生でも信じてはいけ無い。
これを良く理解して、いま挙げた十の理由で、簡単に信じてしまわ無い様にして下さい。しかしここで申し上げたいのは、ブッダは、先に挙げた十種類の物に関わるなと禁じてはいません。十分熟慮する資料として、話を聞いてもいいし、噂を聞いてもいいのです。
しかし直ぐには信じ無いで、それで苦を無くす事が出来るかどうか熟慮して、もし苦しみが無くなりそうなら、取りあえず実践してみて、真実である事が証明されてから、それから信じなさいと教えています。
Kesamuttisutta
475
Etha tumhe, kālāmā, mā anussavena, mā paramparāya, mā itikirāya, mā piṭakasampadānena, mā takkahetu, mā nayahetu, mā ākāraparivitakkena, mā diṭṭhinijjhānakkhantiyā, mā bhabbarūpatāya, mā samaṇo no garūti. Yadā tumhe, kālāmā, attanāva jāneyyātha— ‘ime dhammā akusalā, ime dhammā sāvajjā, ime dhammā viññugarahitā, ime dhammā samattā samādinnā ahitāya dukkhāya saṃvattantī’ti, atha tumhe, kālāmā, pajaheyyātha.
2012年2月24日金曜日
「生きとし生けるもの」の中に「私」が入ってしまった。
私の宿泊冥想会の体験談が、日本テーラワーダ仏教の月刊誌Patipada3月号に掲載されました。
2011/12/29~2012/1/3
たった6日で溢れる程の実りがありました。
アラナ精舎で12月29日~1月3日に宿泊冥想実践会が開催されました。
宿泊者は、男女各2名で愛知からの参加者もおられました。
朝は4時半に起床、5時半に読経、夜10時までは、冥想、仏教の勉強、木岡様へのパーリ語についての質疑応答と有意義な年末年始を過ごせました。
■「生きとし生けるものが幸せでありますように」を1万回。
初日の宿泊は私一人。日が暮れる頃、座る冥想をしている時に慈悲(慈悲喜捨)の冥想の慈である「生きとし生けるものが幸せでありますように」を千回唱えたくなり、iPodのカウンターで回数を記録しながら唱えました。
苦しかったですが、心も落ち着き思考が止まる事も経験し2千回唱えました。
前週「慈悲の心は仏教の土台であり、その土台が無いと正しい智慧が生まれ無いのでは?」と思い長老の資料を調べて正しいと確信、慈悲の重要性を改めて心に刻んだばかりでした。
次の日からは朝4時半起床後に千回、昼食後に千回、就寝前に千回唱える事を基本にして、大晦日に5千回、元旦には1万回唱えました。
1万回の時に無明を引きずって前に進んだのですが、2回程、強烈な昏沈睡眠に負けて気絶したように後ろに倒れる。と言う落ちまで付きました。
毎日唱えると、一言一言に念が入るようになり、慈経、等で説かれている多岐多種の生命毎に上下360度の十方向へ一斉に慈悲の念を放つ事ができるようになりました。(一番陥りやすい出来たつもり?)
■「私」が「生きとし生けるもの」の中に入ってしまった。
毎日唱えていく中で、悟りの光が現われる(捨)と、幸せであり(慈)、悩み苦しみが無くなり(悲)、願い事が叶えられた(喜)事に気が付きました。
更に「私の親しい人」と「私の嫌いな人」と「私を嫌っている人」も「生きとし生けるもの」に入り、「仏教は生命の教えである」と発見した瞬間、「私」さえも「生きとし生けるもの」の中に入ってしまい生命のネットワークの中に「私」が居ました。
今は「生きとし生けるものに悟りの光が現れますように」と唱え、私を含む全生命に対して念を送っております。
が、この変化も流れの途中ですので、これからも様々な道を辿って行くのでしょう。
■畳一畳の中で歩く冥想。
ヴィパッサナー冥想の歩く冥想では、極小間隔(1cm未満の感覚)単位で瞬間瞬間、足の感覚を感じながら確り実況中継を繰り返しました。
その結果、畳一畳の幅を3分、道場一方向を12分で焦り無く集中して移動できるようになりました。
この超スローを実践した後、いつものように一歩を3秒程に戻すと、開花する花の連続写真のように感覚が細かくリアルに入るようになりました。
また、町を歩く時に歩く冥想をしても集中力が持続し妄想しなくなりました。
■夢の中で抱きしめた娘。
2年前に妻が3才の娘を連れて家を出てから、今までに娘に会わせてもらえたのが2回で合計2時間半です。5才になった娘が私に会いたがっていると義母から聞いています。私は仏教を帰依所として心の安定を保っていますが、娘の父への渇愛が心配です。冥想会最後の夜に夢の中で娘を抱きしめていました。
■苦しんでいる人達は、私の姿。
最終日の3時に冥想会が終了した後も冥想を続け、最後に暗闇の燈火に浮かび上がる世尊の前で慈悲の冥想をさせて頂きました。
途中から、孤児達、孤独な老人や若者達、病気で苦しむ生命、戦火の兵士達、戦争で家族を失った人々、死に逝く生命、等々、次から次へと現れて来ましたが、その全ての姿は、私自身にも追い被さろうとしている数々の恐怖(苦)である事に気付きました。
全ての命は、私と同じ命で、互いの苦しみや、命にさえも境が無いような気がしました。(無我の一種?)
だから、慈しみのある生命が、ネットワークの中に居る事を快く受け入れてもらえる。
慈しみは、生命の基礎であり仏教の土台だと更に心に刻みました。
■冥想会を通して。
一切の生命は平等、心の成長こそが真の実りである事を理解しました。
私が精進して一つの生命として成長する事で、私の周りの生命が幸せを感じる事。
私の心が結花(娘)にとって帰依所になる事が、父に会えない娘が時空を乗り越えて幸せになれる。と、答えが出ました。
親として…、
私の宝物は娘の「心」です。
結花の「心」が、理性と慈しみに溢れ幸せでありますように。
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように。
2011/12/29~2012/1/3
たった6日で溢れる程の実りがありました。
アラナ精舎で12月29日~1月3日に宿泊冥想実践会が開催されました。
宿泊者は、男女各2名で愛知からの参加者もおられました。
朝は4時半に起床、5時半に読経、夜10時までは、冥想、仏教の勉強、木岡様へのパーリ語についての質疑応答と有意義な年末年始を過ごせました。
■「生きとし生けるものが幸せでありますように」を1万回。
初日の宿泊は私一人。日が暮れる頃、座る冥想をしている時に慈悲(慈悲喜捨)の冥想の慈である「生きとし生けるものが幸せでありますように」を千回唱えたくなり、iPodのカウンターで回数を記録しながら唱えました。
苦しかったですが、心も落ち着き思考が止まる事も経験し2千回唱えました。
前週「慈悲の心は仏教の土台であり、その土台が無いと正しい智慧が生まれ無いのでは?」と思い長老の資料を調べて正しいと確信、慈悲の重要性を改めて心に刻んだばかりでした。
次の日からは朝4時半起床後に千回、昼食後に千回、就寝前に千回唱える事を基本にして、大晦日に5千回、元旦には1万回唱えました。
1万回の時に無明を引きずって前に進んだのですが、2回程、強烈な昏沈睡眠に負けて気絶したように後ろに倒れる。と言う落ちまで付きました。
毎日唱えると、一言一言に念が入るようになり、慈経、等で説かれている多岐多種の生命毎に上下360度の十方向へ一斉に慈悲の念を放つ事ができるようになりました。(一番陥りやすい出来たつもり?)
■「私」が「生きとし生けるもの」の中に入ってしまった。
毎日唱えていく中で、悟りの光が現われる(捨)と、幸せであり(慈)、悩み苦しみが無くなり(悲)、願い事が叶えられた(喜)事に気が付きました。
更に「私の親しい人」と「私の嫌いな人」と「私を嫌っている人」も「生きとし生けるもの」に入り、「仏教は生命の教えである」と発見した瞬間、「私」さえも「生きとし生けるもの」の中に入ってしまい生命のネットワークの中に「私」が居ました。
今は「生きとし生けるものに悟りの光が現れますように」と唱え、私を含む全生命に対して念を送っております。
が、この変化も流れの途中ですので、これからも様々な道を辿って行くのでしょう。
■畳一畳の中で歩く冥想。
ヴィパッサナー冥想の歩く冥想では、極小間隔(1cm未満の感覚)単位で瞬間瞬間、足の感覚を感じながら確り実況中継を繰り返しました。
その結果、畳一畳の幅を3分、道場一方向を12分で焦り無く集中して移動できるようになりました。
この超スローを実践した後、いつものように一歩を3秒程に戻すと、開花する花の連続写真のように感覚が細かくリアルに入るようになりました。
また、町を歩く時に歩く冥想をしても集中力が持続し妄想しなくなりました。
■夢の中で抱きしめた娘。
2年前に妻が3才の娘を連れて家を出てから、今までに娘に会わせてもらえたのが2回で合計2時間半です。5才になった娘が私に会いたがっていると義母から聞いています。私は仏教を帰依所として心の安定を保っていますが、娘の父への渇愛が心配です。冥想会最後の夜に夢の中で娘を抱きしめていました。
■苦しんでいる人達は、私の姿。
最終日の3時に冥想会が終了した後も冥想を続け、最後に暗闇の燈火に浮かび上がる世尊の前で慈悲の冥想をさせて頂きました。
途中から、孤児達、孤独な老人や若者達、病気で苦しむ生命、戦火の兵士達、戦争で家族を失った人々、死に逝く生命、等々、次から次へと現れて来ましたが、その全ての姿は、私自身にも追い被さろうとしている数々の恐怖(苦)である事に気付きました。
全ての命は、私と同じ命で、互いの苦しみや、命にさえも境が無いような気がしました。(無我の一種?)
だから、慈しみのある生命が、ネットワークの中に居る事を快く受け入れてもらえる。
慈しみは、生命の基礎であり仏教の土台だと更に心に刻みました。
■冥想会を通して。
一切の生命は平等、心の成長こそが真の実りである事を理解しました。
私が精進して一つの生命として成長する事で、私の周りの生命が幸せを感じる事。
私の心が結花(娘)にとって帰依所になる事が、父に会えない娘が時空を乗り越えて幸せになれる。と、答えが出ました。
親として…、
私の宝物は娘の「心」です。
結花の「心」が、理性と慈しみに溢れ幸せでありますように。
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように。
2012年2月22日水曜日
捨:生かされている。とは
(私感です。)
「生かされている」とは、
見えない何かの力に、生かされているのでは無く。
目の前の事(この状態)に最善を尽くす。と言う事です。
今、この瞬間、この与えられた状態、この目の前の状況に、不満(執着)を捨て、理性と慈しみで、確り最善を尽くして行動する事です。
与えられた状態、身体(不自由でも)、仕事(こき使われても)、人間関係(嫌いでも)、家(荒ら屋でも)、食事(粗食でも)、勉強(苦手でも)、家庭(歪んでいても)、排便、睡眠に最善を尽くして行動す事です。
目の前の状況の、不満、文句、絶望さえも捨て、心を穏やかにし、理性と慈しみを持って、与えられたこの中で最善を尽くして行動する。
「生かされている」とは、そういう事だと思います。
目の前の事、この状態に最善を尽くす。と言う事です。
見えない何かに生かされている。は他力であり、欲です。
それは、捏造であり、無明であり、執着です。
その欲を捨てて最善を尽くして行動した時に、真理が見えると思います。
方法は、
24時間絶え間なく、心と身体を観察し、
感情で心が揺れた瞬間に感情を捨てる。
即ち、無明を叩き潰して前に進む。
叩き潰せなければ、無明を引きずって、前に前に進む。
しかありません。
これは、Appamādaであり、
仏道であり、
生(活)きる、です。
目の前の事に最善を尽くす事で、初めて周りの生命から、生きる道の手助けをしてもらえるのです。
また、理性と慈しみが無ければ最善にはなりません。
「生かされている」とは、
見えない何かの力に、生かされているのでは無く。
目の前の事(この状態)に最善を尽くす。と言う事です。
今、この瞬間、この与えられた状態、この目の前の状況に、不満(執着)を捨て、理性と慈しみで、確り最善を尽くして行動する事です。
与えられた状態、身体(不自由でも)、仕事(こき使われても)、人間関係(嫌いでも)、家(荒ら屋でも)、食事(粗食でも)、勉強(苦手でも)、家庭(歪んでいても)、排便、睡眠に最善を尽くして行動す事です。
目の前の状況の、不満、文句、絶望さえも捨て、心を穏やかにし、理性と慈しみを持って、与えられたこの中で最善を尽くして行動する。
「生かされている」とは、そういう事だと思います。
目の前の事、この状態に最善を尽くす。と言う事です。
見えない何かに生かされている。は他力であり、欲です。
それは、捏造であり、無明であり、執着です。
その欲を捨てて最善を尽くして行動した時に、真理が見えると思います。
方法は、
24時間絶え間なく、心と身体を観察し、
感情で心が揺れた瞬間に感情を捨てる。
即ち、無明を叩き潰して前に進む。
叩き潰せなければ、無明を引きずって、前に前に進む。
しかありません。
これは、Appamādaであり、
仏道であり、
生(活)きる、です。
目の前の事に最善を尽くす事で、初めて周りの生命から、生きる道の手助けをしてもらえるのです。
また、理性と慈しみが無ければ最善にはなりません。
2012年2月18日土曜日
プッタタート比丘との出会い。
私は、全ての飾りや鎧を取り払った、
世尊だけのお言葉で、迷い(執着)を完全に捨てたい。
との思いで、色々な仏教と関わってきました。
本日、ターン・プッタタート比丘の法話の翻訳と出会いました。
とても興味深い内容でした。
暫く、ターン・プッタタート比丘の説法の、理解、
検証(偉そうな事を言って済みません)、実践を試みます。
http://space.geocities.jp/tammashart/index.html
http://sabbe-dhamma-nalam-abhinivesaya.blogspot.jp/
世尊だけのお言葉で、迷い(執着)を完全に捨てたい。
との思いで、色々な仏教と関わってきました。
本日、ターン・プッタタート比丘の法話の翻訳と出会いました。
とても興味深い内容でした。
暫く、ターン・プッタタート比丘の説法の、理解、
検証(偉そうな事を言って済みません)、実践を試みます。
http://space.geocities.jp/tammashart/index.html
http://sabbe-dhamma-nalam-abhinivesaya.blogspot.jp/
2012年2月16日木曜日
2012年2月15日水曜日
捨。智慧、禅定に執着しない。
13.もうひとつの生き方 I (1)智慧もサマディも悟りではありません
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi63.html
(1)智慧もサマディも悟りではありません
■完全な悟りはどうやって得るのか■
仏教の世界で、一番優れていたと言われるのはお釈迦さまの一番弟子であるサーリプッタ尊者です。サーリプッタ尊者ほど、仏教の話を明確に説明できる人はいなかったのです。ですので、いろいろな修行者たちが悩んだとき、問題にぶつかったとき、彼らを解決に導いてあげたのは、ほとんど、サーリプッタ尊者だったのです。
ある日、サーリプッタ尊者のところへ、ウパワーナという名のお坊さんが来て、こういうふうに質問するのです。「サーリプッタ尊者、『智慧』 (vijjâ) によって完全な悟り、完全な解脱を得ることはできますか」尊者の答えはこうでした。「いえ、できません」
そこでウパワーナは次の質問をするのです。「では『行』(carana) によって、完全な悟り、完全な解脱を得ることはできますか」
これはちょっと説明しなければわからないと思います。『行』というのは『生き方』のことなのですが、一般的な言葉で言うと、『道徳的な生き方』ということになるかと思います。何も悪いことをしないで良いことだけして、嘘も言わない、大変正しい道徳的な生き方、戒律をきちんと守って生きる、生き方。
また、瞑想して集中力を持ち、サマディと呼ばれる状態を完成させることも、この『行』に入ります。瞑想のサマディというのは、第一禅定、第二禅定など、だいたい八種類くらいに分かれています。つまりこのときウパワーナ僧が尋ねたのは、ここまで含めた内容、心もできているという状態になることだったと考えられます。「智慧で最終解脱が得られないなら、行でもって最終解脱が得られますか」と聞いたのです。しかし答えはやはり「得られません」というものでした。
そこで三番目の質問は、「それなら智慧と行、この2つがあれば最終解脱が得られますか」答えはやはり「得られません」でした。
そこで四番目の質問をします。「では智慧と行のどちらも関わりなく、最終解脱を得ることができますか」やはり答えは同じ、「得られません」でした。
なぜこのような質問をしたかというと、仏教においては、智慧と行という2つは、大変大切な修行だと認識されていたからなのです。どちらがも欠かせない仏教の2本柱だと、誰もが思っていたのです。日本の『箸』のようなものですね。何かをつかむには、2本ともなくてはいけません。
ウパワーナ僧は困ってしまって、片方でもだめだし、両方あってもだめ、だからといって両方やめてもだめだという、一体全体、何をおっしゃりたいのですか、と問いただしました。 そこでサーリプッタ尊者は次のように説明されたのです。
■智慧に執着しないこと■
「もし私が智慧(vijjâ)によって人は悟ることができると言えば、執着があっても『悟った』というふうに解釈したことになります」…「智慧がある」つまり、「ものごとが見えている」ということ自体が、自分にとって何か意味あるものが『ある』ということにとなってしまう。つまり「そこに、智慧のある自分がいる」状態なのです。自分がいて、その自分に、「智慧」があるのです。この場合は、智慧といっても単なる知識ではなくて、「無常」に対する智慧なの で、大変超越した智慧 のことです。しかし、 それでも「智慧がある」という場合、智慧に執着しているのです。「智慧がひらめいた」ということ自体は悟りではないのだということを、尊者は言っておられるのです。智慧があっても、「私には、智慧があるのだ」という状態でいると、そこには、とらわれがある、執着があるのです。悟りというのは、無執着の状態であって、私もいないし、私のものもない状態なんですね。
■サマディに執着しないこと■
2番目の質問に対する説明も、同じなんですね。生き方を完成したならば、あるいは、瞑想してサマディが究極的なレベルまで達したならば、それが悟りかというと、違う。そこにもまた、「サマディが完成した」という、執着がある。それで悟れるというのなら、執着があるまま悟ることができると、言ったことになるのだと。
「行」ということを、少々説明してみましょう。ふつう、「行」というと、修行すること、善い行いをすることなどが考えられます。ここでは「悟りに至る行」に対する質問ですので、一般の修行とは比べられないほど、レベルの高いものを意味します。ここで言う「行」は、瞑想の経験のことです。瞑想すれば「サマディ」という、普通の人に経験できないほど高度な、精神統一が生まれます。仏教では、精神統一も究極的なレベルまで上達する方法を教えています。サマディ状態には、8つのレベルがあります。最初の4つのレベルでは、からだと心の、完全な喜悦感が現れます。5番目のレベルでからだに対する意識が完全に消えて、心だけを感じるようになります。8番目まで達すると、心も、あるかないかわからないほど、集中力が高まります。集中力には、これ以上の成長はありません。8番目は、サマディの最高位です。心が欲と怒りで汚れていると、1番目のサマディでさえも、作ることができません。8番目になると「自分がいる」と感じられないほど成長していますので、心の汚れはすっかり休眠状態になっているため「悟り」だと勘違いする恐れがあります。もし「私には、サマディ、行 ( carana ) がある。ゆえに悟っている」と思うならば、それは解脱ではなく、サマディという状態を『持っている』ということになります。
では、智慧(vijjâ) と行(carana) 、両方が完成したらどうなるかというと、同じことで、やはり『執着があり』ながら『悟った』という矛盾になるのです。
また、少し説明してみましょう。ここで執着というのは、欲や物を欲しがる、ごく一般的な心のことをいっているのではありません。8番目までサマディを作っている行者の、サマディに対する執着、智慧に対する執着のことなのです。究極的な智慧、究極的なレベルの、サマディ、その両方があっても、その人にはその智慧が『あり』禅定が『ある』という問題があります。それは執着であり悟りではない、そう言うのです。
4番目の質問は、簡単です。それでは、智慧(vijjâ) も行(carana)もなくても悟れますかという質問です。もしそうであるならば、一般人も皆、悟っていることになります。そんなことはありませんね。
■悟りには主語がない■
そして、尊者はこう説明するのです。智慧ある人、サマディを持ち徹底的な集中力を持つ人はありのまま、現象を観ています。自分の解釈も論理も一切ありません。すべての現象がどのように生まれて消えるかということを観られるのは、この超越した智慧と超越した集中力がある人だけなのです。そのような人が超越した智慧と超越した集中力をもって、ありのままにものごとを観ていると「最終解脱は起こるのです」…それが答えでした。
言葉を超えた智慧が生まれても、それは解脱じゃない。すべての現象が無常であり苦であること、無我であることを感じ続けていて、精神的に落ち着いていても、それ自体は悟りということにはならない。しかし、このようにものごとを観ていくと、心は何ものにもとらわれない状態を作るようになる。
そもそも、心とは「取る」「とらえる」ものです。「心」という何かがあるのではなく、対象をとらえるのが心であり、瞬間瞬間の作用が心なのです。だから、何ものにもとらわれない心というのは、あり得ない話なんです。ですから、仏教では、この状態に、「主語」がないのです。主語なしに『解脱』『涅槃』と呼びます。
そこには心もないし、とらえるものもないということですから、言葉では、何も言えないんですね。
(次号に続く) (スマナサーラ師講義より構成しました)
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi64.html
(2)頼りになるのは覚者だけ
先月は「悟り」とはどういうものかを、サーリプッタ尊者の言葉から見てきました。
少しふり返ってみますと、先月のお話の中で、智慧もサマディも悟りではないという話がありましたが、だからといって、智慧なしに、サマディなしに、悟りがあるかというとそれは違う。智慧とサマディによってものごとがありのまま見える。ありのまま見える人が解脱を達成できる。智慧もサマディも、ありのまま見るための「道具」だということなのです。解脱に到達するためのハシゴのようなものです。解脱というのは「執着する心」がない状態です。
■心とは■
「心」の定義はというと、対象をつかむということが「心」です。なにかをつかまえて認識する。音を聞いて認識する。それは心。形を見て「見えた」と認識する。それが心。何か考えて認識するのが心の働き。心はいつも、次から次へと、何かをつかまえています。永久的に止まることなく、次から次へと。外の世界につかまえるものがなければ、自分の方へ、回転する。自分で回転することができますからね。それは、恐ろしいことです。いつまでも心は続けるのです。対象をつかまえるのが心であれば、対象をつかまえなければ、そこに、心はないということなのです。人間に説明できるのはそこまでですからと、お釈迦さまは、話を終わられます。
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi63.html
(1)智慧もサマディも悟りではありません
■完全な悟りはどうやって得るのか■
仏教の世界で、一番優れていたと言われるのはお釈迦さまの一番弟子であるサーリプッタ尊者です。サーリプッタ尊者ほど、仏教の話を明確に説明できる人はいなかったのです。ですので、いろいろな修行者たちが悩んだとき、問題にぶつかったとき、彼らを解決に導いてあげたのは、ほとんど、サーリプッタ尊者だったのです。
ある日、サーリプッタ尊者のところへ、ウパワーナという名のお坊さんが来て、こういうふうに質問するのです。「サーリプッタ尊者、『智慧』 (vijjâ) によって完全な悟り、完全な解脱を得ることはできますか」尊者の答えはこうでした。「いえ、できません」
そこでウパワーナは次の質問をするのです。「では『行』(carana) によって、完全な悟り、完全な解脱を得ることはできますか」
これはちょっと説明しなければわからないと思います。『行』というのは『生き方』のことなのですが、一般的な言葉で言うと、『道徳的な生き方』ということになるかと思います。何も悪いことをしないで良いことだけして、嘘も言わない、大変正しい道徳的な生き方、戒律をきちんと守って生きる、生き方。
また、瞑想して集中力を持ち、サマディと呼ばれる状態を完成させることも、この『行』に入ります。瞑想のサマディというのは、第一禅定、第二禅定など、だいたい八種類くらいに分かれています。つまりこのときウパワーナ僧が尋ねたのは、ここまで含めた内容、心もできているという状態になることだったと考えられます。「智慧で最終解脱が得られないなら、行でもって最終解脱が得られますか」と聞いたのです。しかし答えはやはり「得られません」というものでした。
そこで三番目の質問は、「それなら智慧と行、この2つがあれば最終解脱が得られますか」答えはやはり「得られません」でした。
そこで四番目の質問をします。「では智慧と行のどちらも関わりなく、最終解脱を得ることができますか」やはり答えは同じ、「得られません」でした。
なぜこのような質問をしたかというと、仏教においては、智慧と行という2つは、大変大切な修行だと認識されていたからなのです。どちらがも欠かせない仏教の2本柱だと、誰もが思っていたのです。日本の『箸』のようなものですね。何かをつかむには、2本ともなくてはいけません。
ウパワーナ僧は困ってしまって、片方でもだめだし、両方あってもだめ、だからといって両方やめてもだめだという、一体全体、何をおっしゃりたいのですか、と問いただしました。 そこでサーリプッタ尊者は次のように説明されたのです。
■智慧に執着しないこと■
「もし私が智慧(vijjâ)によって人は悟ることができると言えば、執着があっても『悟った』というふうに解釈したことになります」…「智慧がある」つまり、「ものごとが見えている」ということ自体が、自分にとって何か意味あるものが『ある』ということにとなってしまう。つまり「そこに、智慧のある自分がいる」状態なのです。自分がいて、その自分に、「智慧」があるのです。この場合は、智慧といっても単なる知識ではなくて、「無常」に対する智慧なの で、大変超越した智慧 のことです。しかし、 それでも「智慧がある」という場合、智慧に執着しているのです。「智慧がひらめいた」ということ自体は悟りではないのだということを、尊者は言っておられるのです。智慧があっても、「私には、智慧があるのだ」という状態でいると、そこには、とらわれがある、執着があるのです。悟りというのは、無執着の状態であって、私もいないし、私のものもない状態なんですね。
■サマディに執着しないこと■
2番目の質問に対する説明も、同じなんですね。生き方を完成したならば、あるいは、瞑想してサマディが究極的なレベルまで達したならば、それが悟りかというと、違う。そこにもまた、「サマディが完成した」という、執着がある。それで悟れるというのなら、執着があるまま悟ることができると、言ったことになるのだと。
「行」ということを、少々説明してみましょう。ふつう、「行」というと、修行すること、善い行いをすることなどが考えられます。ここでは「悟りに至る行」に対する質問ですので、一般の修行とは比べられないほど、レベルの高いものを意味します。ここで言う「行」は、瞑想の経験のことです。瞑想すれば「サマディ」という、普通の人に経験できないほど高度な、精神統一が生まれます。仏教では、精神統一も究極的なレベルまで上達する方法を教えています。サマディ状態には、8つのレベルがあります。最初の4つのレベルでは、からだと心の、完全な喜悦感が現れます。5番目のレベルでからだに対する意識が完全に消えて、心だけを感じるようになります。8番目まで達すると、心も、あるかないかわからないほど、集中力が高まります。集中力には、これ以上の成長はありません。8番目は、サマディの最高位です。心が欲と怒りで汚れていると、1番目のサマディでさえも、作ることができません。8番目になると「自分がいる」と感じられないほど成長していますので、心の汚れはすっかり休眠状態になっているため「悟り」だと勘違いする恐れがあります。もし「私には、サマディ、行 ( carana ) がある。ゆえに悟っている」と思うならば、それは解脱ではなく、サマディという状態を『持っている』ということになります。
では、智慧(vijjâ) と行(carana) 、両方が完成したらどうなるかというと、同じことで、やはり『執着があり』ながら『悟った』という矛盾になるのです。
また、少し説明してみましょう。ここで執着というのは、欲や物を欲しがる、ごく一般的な心のことをいっているのではありません。8番目までサマディを作っている行者の、サマディに対する執着、智慧に対する執着のことなのです。究極的な智慧、究極的なレベルの、サマディ、その両方があっても、その人にはその智慧が『あり』禅定が『ある』という問題があります。それは執着であり悟りではない、そう言うのです。
4番目の質問は、簡単です。それでは、智慧(vijjâ) も行(carana)もなくても悟れますかという質問です。もしそうであるならば、一般人も皆、悟っていることになります。そんなことはありませんね。
■悟りには主語がない■
そして、尊者はこう説明するのです。智慧ある人、サマディを持ち徹底的な集中力を持つ人はありのまま、現象を観ています。自分の解釈も論理も一切ありません。すべての現象がどのように生まれて消えるかということを観られるのは、この超越した智慧と超越した集中力がある人だけなのです。そのような人が超越した智慧と超越した集中力をもって、ありのままにものごとを観ていると「最終解脱は起こるのです」…それが答えでした。
言葉を超えた智慧が生まれても、それは解脱じゃない。すべての現象が無常であり苦であること、無我であることを感じ続けていて、精神的に落ち着いていても、それ自体は悟りということにはならない。しかし、このようにものごとを観ていくと、心は何ものにもとらわれない状態を作るようになる。
そもそも、心とは「取る」「とらえる」ものです。「心」という何かがあるのではなく、対象をとらえるのが心であり、瞬間瞬間の作用が心なのです。だから、何ものにもとらわれない心というのは、あり得ない話なんです。ですから、仏教では、この状態に、「主語」がないのです。主語なしに『解脱』『涅槃』と呼びます。
そこには心もないし、とらえるものもないということですから、言葉では、何も言えないんですね。
(次号に続く) (スマナサーラ師講義より構成しました)
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi64.html
(2)頼りになるのは覚者だけ
先月は「悟り」とはどういうものかを、サーリプッタ尊者の言葉から見てきました。
少しふり返ってみますと、先月のお話の中で、智慧もサマディも悟りではないという話がありましたが、だからといって、智慧なしに、サマディなしに、悟りがあるかというとそれは違う。智慧とサマディによってものごとがありのまま見える。ありのまま見える人が解脱を達成できる。智慧もサマディも、ありのまま見るための「道具」だということなのです。解脱に到達するためのハシゴのようなものです。解脱というのは「執着する心」がない状態です。
■心とは■
「心」の定義はというと、対象をつかむということが「心」です。なにかをつかまえて認識する。音を聞いて認識する。それは心。形を見て「見えた」と認識する。それが心。何か考えて認識するのが心の働き。心はいつも、次から次へと、何かをつかまえています。永久的に止まることなく、次から次へと。外の世界につかまえるものがなければ、自分の方へ、回転する。自分で回転することができますからね。それは、恐ろしいことです。いつまでも心は続けるのです。対象をつかまえるのが心であれば、対象をつかまえなければ、そこに、心はないということなのです。人間に説明できるのはそこまでですからと、お釈迦さまは、話を終わられます。
2012年2月14日火曜日
捨。仏教は、突き詰めれば「捨てる」と言う事に尽きる。
(「震災と祈り」サンガジャパンVol. 6 「落ち着き」だけが「自分のもの」になる)
≪抜粋≫
仏教の真理は、ひと言で言えば「捨てる」
仏教の、悟りのポイントは、ただそれだけなのです。
仏教は突き詰めれば「捨てる」ということに尽きるのです。
長老方、指導者たちは、いつでも「捨てたら楽」だということを言っているのです。
お釈迦様も「私の物で無い物は、捨てなさい」と同じ言葉をずっと説かれます。
仏教がポイントとする姿勢というのは、捨てて意欲だけ持つ、ということです。
強力な意欲が必要です。 「やり抜く」という負けず嫌いが必要です。
≪以下 原文≫
■「したい」と、言う気持ちを捨てる。
アーチャン・チャーという有名なお坊さんがいます。
田舎のお坊さんで、外国語は何もわからず、しかも森の中で生活していたのですが、世界中で有名なのです。
高名な弟子たちもたくさんいます。 立派なお坊さんですが、説法するときはあまり難しい仏教用語などは何も言わず、そこらへんにいる犬猫の話やら、牛の話やらばかりします。
しかし、すごいパワーがあります。
そのお坊さんが、ずっと言っている一つの言葉があるのです。
私は英語でしか読んでいませんが、「let go(手放す)」、いわゆる「放っておけ」という言葉です。
その言葉を中心に据えて、ずっと教えていました。 その教えの結果として、かなりの人々が仏教を経験していきました。
お釈迦様も同じ言葉をずっとおっしゃっています。
「私のものでないものは捨てなさいよ」と説かれます。
「これが私ですか」「これが私ですか」と、問いかけるやり方で修行する方法もあります。
感覚、身体、気持ち、あるいは大事なものなどを、「私だろうか」と。
そして「私でないのだから捨てます」と放っておけるようにするのです。
「捨てる」「放っておく」「気にしないことにする」
という能力が身につくと、かなり速いスピードで成長して、悟りに達します。
対して、「知りたい」「悟りたい」などと、「○○○○したい」が入ると終わり。 そこは一般人が引っ掛かってしまうところです。 「そんなこと言っても、『やりたい、したい』という気持ちがなければできないでしょう。」と考えてしまうのです。
そこは、一人一人がなんとか解決しなくてはいけないポイントなのです。
■自分とは何かを調べ、捨てていく
目標をつくって頑張るのは、世の中で一般的なやり方です。 「これができるようになるまで頑張るぞ!」などとよく言いますね。
仏教がポイントとする姿勢というのは、捨てて意欲だけ持つ、ということです
やることはやるのですが、「やりたい、やりたい」ではないのです。 「何のため」とか、「このほうがこんなにいいことがあるから」という目的や理由はなく、「やる」という意欲だけ必要だということです。
ですから、
強力な意欲が必要です。 「やり抜く」という負けず嫌いが必要です。
しかし、「やりたい、やりたい」というのはダメです。 「やりたい、やりたい」というのは、自我が絡んでいます。
自分という錯覚があって、やりたくなります。 それでは、いくら冥想をしても、何年やっても悟りには達しません。
冥想にはほかならず結果がありますから
冥想を続けたければ、落ち着いてはいきます。 長いあいだ、清らかな心ではいられます。
しかし、「自分」という気持ちが入っている限りは、悟りという結果にはならないのです。
「自分」という気持ちを、はじめから捨てることができない人々は、「自分」とは何かと調べてみるのです。
「これが『自分』ですか」「これが『自分』ですか」と。 そして、そうでないものは、引っ掛からないで捨てることにするのです。
たとえば、冥想をすると、最初は痛みが出ます。
次に「自分」が現れてくるのです。 「この痛みだけ、なんとかならないか」などと思います。 それは、痛みに引っ掛かって執着しているのです。
このとき、「痛みとは『私』でしょうか」と調べてみるのです。
そして、「『自分』ではないでしょう。では放っておきましょう」というふうになれれば、冥想は成功します。
あるいは、このとき逆に、「なるほど『私』『私』とは、痛みがあるから生まれたものだ。ああ、『私』というものは
あるわけがないのだ」とわかると、そこで悟りの段階をひとつ進むことができます。
冥想が成功しない人々は、
だいたい、私のこの話を聞いて、「私とはこういうものだ」ですとか、私が言ったことをただ繰り返して言うのです。
人の言ったことをそのまま持ってくるようなインチキやごまかしをするわけですから、「あ、この人は悟らないだろう」と思います。
受け売りではなくて、もし自分でわかったら、これはすごい力です。
わざわざ私に報告しなくても、わかります。
■比較して言う「無常」は、真の無常では無い。
無常を知っている事で悟りに達する、と言うのは当たり前です。
ここで言う無常とは、
究極的な無常です。
一般に言われる無常は、何か無常で無い物に比較して感じる無常であって、それは究極的な無常ではありません。
中略
春に咲く桜にも、「ああ、花は散って無常だなあ」と言ったりするとでしょう。
その場合は、
桜の花が無常で、桜の木は無常でない訳です。
一年の内に精々一週間位しか花盛りが無い「花」の方を無常だと言うのです。
どうしても何か、無常で無い物に比較しています。
しかし、
究極的には、無常でない物は、存在するもしないのです。
中略
■修行は、「私」が無い世界
悟りが早いか遅いかは、その人の固定概念がどんな程度かというところで差がでます。
固定概念があると成り立たないのです。
その固定概念の中でも大きなものが、「私」です。
修行は、最初から「私」がない世界です。
語るのは、修行者が、「今のこのような現象をこのように見ているのだ」と、現状を説明するだけの世界です。
中略
冥想では、指導者はやり方を教えるだけで、余り助けてあげるところはありません。
そして、やってみれば、悟りに達します。
そんなにややこしい事でも、依存する世界でも無いのです。
中略
指導者が悟らせるなどと言う事はあり得ないのです。
ですから、タイのアーチャン・チャー長老も「let go、let go、let go、let go」と言うだけで、解った人がブッダの教えを経験する。と言う事なのです。
■仏教の真理は、ひと言で言えば「捨てる」
私が覚えているアーチャン・チャー長老のエピソードをひとつだけご紹介します。
長老のお寺は、森のお寺でした。 あるとき、ひどい風雨で木なども倒れて無茶苦茶になって、それをみんなで掃除していたときのことです。 修行に来ている人々みんなで、木を切ったり捨てたり、いろいろ考えたりして、お寺をきれいにしていました。
あるところに木が一本倒れていて、長老が若い人と一緒にどけようとして、二人で木を抱えました。
重いので、持っていて、ちょっと歩いて、「この辺りで捨てましょう」と、ドカンとそれを捨てたのです。
そのとき長老が、「捨てたら楽ですね」とひと言、言うのです。
重くて、持っているのがキツい木を、捨てたらラクになった、
レッゴー(Let go)ということなのですね。
「捨てたら楽ですね」という長老のひと言に、私はびっくりするのです。 弟子がどんな感じになったかわかりませんが、私にとっては、とんでもないびっくりです。
「捨てたら楽ですね」
というのは、とてもシンプルな言葉でしょう。
重い木をお運んで、ドーンと捨てた。
「あっ、楽」、ただそれだけ。
仏教の、悟りのポイントは、ただそれだけなのです。
長老方、指導者たちは、いつでも「捨てたら楽」だということを言っているのです。
アーチャン・チャー長老は、チャンスがあったら、いつでも真理を教えるのです。 そのための「捨てたら楽ですね」という言葉なのです。 いっさいを捨てるのです。
それだけ。
持ち運ぶとかなり苦しいのです。
それは真理です。
私がびっくりしたのは、何のことなく現実的に、目の前にあることで、お釈迦様がおっしゃっていたような譬えで長老が言うからです。 やっぱりすごい人だなあと思います。 誰にでも言える言葉ですが、精神的に優れた人の言葉は力の強さが違います。
私達も重い荷物を運んだりするでしょう。
きつくて、きつくて、きつくて、痛くて、それでも運ぶ。
何故かと言うと、その荷物に対して結構執着があるのです。
余りにも重くて、一寸置いておきます。
その瞬間で、楽に成りますが、また持ちますからね。
手に取る、そこで苦しみが出てきます。
ですから、
仏教は突き詰めれば「捨てる」ということに尽きるのです。
東日本大震災で被災された方々は、大変な苦難に遭っていらっしゃると思います。 そして、精神的に落ち着いていられる能力を確かめ、養うときでもあります。
「捨てる」「執着しないで楽になる」「放っておく」
という真理への理解を深め、冥想修行を通じて心の平安、本当の幸せを獲得できますよう、願っています。
≪抜粋≫
仏教の真理は、ひと言で言えば「捨てる」
仏教の、悟りのポイントは、ただそれだけなのです。
仏教は突き詰めれば「捨てる」ということに尽きるのです。
長老方、指導者たちは、いつでも「捨てたら楽」だということを言っているのです。
お釈迦様も「私の物で無い物は、捨てなさい」と同じ言葉をずっと説かれます。
仏教がポイントとする姿勢というのは、捨てて意欲だけ持つ、ということです。
強力な意欲が必要です。 「やり抜く」という負けず嫌いが必要です。
≪以下 原文≫
■「したい」と、言う気持ちを捨てる。
アーチャン・チャーという有名なお坊さんがいます。
田舎のお坊さんで、外国語は何もわからず、しかも森の中で生活していたのですが、世界中で有名なのです。
高名な弟子たちもたくさんいます。 立派なお坊さんですが、説法するときはあまり難しい仏教用語などは何も言わず、そこらへんにいる犬猫の話やら、牛の話やらばかりします。
しかし、すごいパワーがあります。
そのお坊さんが、ずっと言っている一つの言葉があるのです。
私は英語でしか読んでいませんが、「let go(手放す)」、いわゆる「放っておけ」という言葉です。
その言葉を中心に据えて、ずっと教えていました。 その教えの結果として、かなりの人々が仏教を経験していきました。
お釈迦様も同じ言葉をずっとおっしゃっています。
「私のものでないものは捨てなさいよ」と説かれます。
「これが私ですか」「これが私ですか」と、問いかけるやり方で修行する方法もあります。
感覚、身体、気持ち、あるいは大事なものなどを、「私だろうか」と。
そして「私でないのだから捨てます」と放っておけるようにするのです。
「捨てる」「放っておく」「気にしないことにする」
という能力が身につくと、かなり速いスピードで成長して、悟りに達します。
対して、「知りたい」「悟りたい」などと、「○○○○したい」が入ると終わり。 そこは一般人が引っ掛かってしまうところです。 「そんなこと言っても、『やりたい、したい』という気持ちがなければできないでしょう。」と考えてしまうのです。
そこは、一人一人がなんとか解決しなくてはいけないポイントなのです。
■自分とは何かを調べ、捨てていく
目標をつくって頑張るのは、世の中で一般的なやり方です。 「これができるようになるまで頑張るぞ!」などとよく言いますね。
仏教がポイントとする姿勢というのは、捨てて意欲だけ持つ、ということです
やることはやるのですが、「やりたい、やりたい」ではないのです。 「何のため」とか、「このほうがこんなにいいことがあるから」という目的や理由はなく、「やる」という意欲だけ必要だということです。
ですから、
強力な意欲が必要です。 「やり抜く」という負けず嫌いが必要です。
しかし、「やりたい、やりたい」というのはダメです。 「やりたい、やりたい」というのは、自我が絡んでいます。
自分という錯覚があって、やりたくなります。 それでは、いくら冥想をしても、何年やっても悟りには達しません。
冥想にはほかならず結果がありますから
冥想を続けたければ、落ち着いてはいきます。 長いあいだ、清らかな心ではいられます。
しかし、「自分」という気持ちが入っている限りは、悟りという結果にはならないのです。
「自分」という気持ちを、はじめから捨てることができない人々は、「自分」とは何かと調べてみるのです。
「これが『自分』ですか」「これが『自分』ですか」と。 そして、そうでないものは、引っ掛からないで捨てることにするのです。
たとえば、冥想をすると、最初は痛みが出ます。
次に「自分」が現れてくるのです。 「この痛みだけ、なんとかならないか」などと思います。 それは、痛みに引っ掛かって執着しているのです。
このとき、「痛みとは『私』でしょうか」と調べてみるのです。
そして、「『自分』ではないでしょう。では放っておきましょう」というふうになれれば、冥想は成功します。
あるいは、このとき逆に、「なるほど『私』『私』とは、痛みがあるから生まれたものだ。ああ、『私』というものは
あるわけがないのだ」とわかると、そこで悟りの段階をひとつ進むことができます。
冥想が成功しない人々は、
だいたい、私のこの話を聞いて、「私とはこういうものだ」ですとか、私が言ったことをただ繰り返して言うのです。
人の言ったことをそのまま持ってくるようなインチキやごまかしをするわけですから、「あ、この人は悟らないだろう」と思います。
受け売りではなくて、もし自分でわかったら、これはすごい力です。
わざわざ私に報告しなくても、わかります。
■比較して言う「無常」は、真の無常では無い。
無常を知っている事で悟りに達する、と言うのは当たり前です。
ここで言う無常とは、
究極的な無常です。
一般に言われる無常は、何か無常で無い物に比較して感じる無常であって、それは究極的な無常ではありません。
中略
春に咲く桜にも、「ああ、花は散って無常だなあ」と言ったりするとでしょう。
その場合は、
桜の花が無常で、桜の木は無常でない訳です。
一年の内に精々一週間位しか花盛りが無い「花」の方を無常だと言うのです。
どうしても何か、無常で無い物に比較しています。
しかし、
究極的には、無常でない物は、存在するもしないのです。
中略
■修行は、「私」が無い世界
悟りが早いか遅いかは、その人の固定概念がどんな程度かというところで差がでます。
固定概念があると成り立たないのです。
その固定概念の中でも大きなものが、「私」です。
修行は、最初から「私」がない世界です。
語るのは、修行者が、「今のこのような現象をこのように見ているのだ」と、現状を説明するだけの世界です。
中略
冥想では、指導者はやり方を教えるだけで、余り助けてあげるところはありません。
そして、やってみれば、悟りに達します。
そんなにややこしい事でも、依存する世界でも無いのです。
中略
指導者が悟らせるなどと言う事はあり得ないのです。
ですから、タイのアーチャン・チャー長老も「let go、let go、let go、let go」と言うだけで、解った人がブッダの教えを経験する。と言う事なのです。
■仏教の真理は、ひと言で言えば「捨てる」
私が覚えているアーチャン・チャー長老のエピソードをひとつだけご紹介します。
長老のお寺は、森のお寺でした。 あるとき、ひどい風雨で木なども倒れて無茶苦茶になって、それをみんなで掃除していたときのことです。 修行に来ている人々みんなで、木を切ったり捨てたり、いろいろ考えたりして、お寺をきれいにしていました。
あるところに木が一本倒れていて、長老が若い人と一緒にどけようとして、二人で木を抱えました。
重いので、持っていて、ちょっと歩いて、「この辺りで捨てましょう」と、ドカンとそれを捨てたのです。
そのとき長老が、「捨てたら楽ですね」とひと言、言うのです。
重くて、持っているのがキツい木を、捨てたらラクになった、
レッゴー(Let go)ということなのですね。
「捨てたら楽ですね」という長老のひと言に、私はびっくりするのです。 弟子がどんな感じになったかわかりませんが、私にとっては、とんでもないびっくりです。
「捨てたら楽ですね」
というのは、とてもシンプルな言葉でしょう。
重い木をお運んで、ドーンと捨てた。
「あっ、楽」、ただそれだけ。
仏教の、悟りのポイントは、ただそれだけなのです。
長老方、指導者たちは、いつでも「捨てたら楽」だということを言っているのです。
アーチャン・チャー長老は、チャンスがあったら、いつでも真理を教えるのです。 そのための「捨てたら楽ですね」という言葉なのです。 いっさいを捨てるのです。
それだけ。
持ち運ぶとかなり苦しいのです。
それは真理です。
私がびっくりしたのは、何のことなく現実的に、目の前にあることで、お釈迦様がおっしゃっていたような譬えで長老が言うからです。 やっぱりすごい人だなあと思います。 誰にでも言える言葉ですが、精神的に優れた人の言葉は力の強さが違います。
私達も重い荷物を運んだりするでしょう。
きつくて、きつくて、きつくて、痛くて、それでも運ぶ。
何故かと言うと、その荷物に対して結構執着があるのです。
余りにも重くて、一寸置いておきます。
その瞬間で、楽に成りますが、また持ちますからね。
手に取る、そこで苦しみが出てきます。
ですから、
仏教は突き詰めれば「捨てる」ということに尽きるのです。
東日本大震災で被災された方々は、大変な苦難に遭っていらっしゃると思います。 そして、精神的に落ち着いていられる能力を確かめ、養うときでもあります。
「捨てる」「執着しないで楽になる」「放っておく」
という真理への理解を深め、冥想修行を通じて心の平安、本当の幸せを獲得できますよう、願っています。
登録:
投稿 (Atom)