プッタタート比丘(三蔵の中のダイヤモンド)より抜粋
http://space.geocities.jp/tammashart/book-sanzou.html
仏教の精髄とは何でしょうか。
それは、
サッペー タンマー ナーラン アピニヴェサーヤ
Sabbe dhammā nālaṃ abhinivesāyā
何物も、私、私のものと執着するべきではない
というブッダの言葉です。
これが三蔵の中のたった一粒のダイヤモンドです。
それが拡大されていろんな形になりました。
ブッダは
「誰も私は、私の、ということにこだわるべきではない、
という言葉を聞いた人は、仏教のすべてを聞いた人であり、
執着しないために実践する人は、仏教のすべての実践をする人であり、
執着しない実践の結果を受け取る人は、仏教のすべての実践の結果を受け取る人である」
と言っています。
2012年2月22日水曜日
捨:生かされている。とは
(私感です。)
「生かされている」とは、
見えない何かの力に、生かされているのでは無く。
目の前の事(この状態)に最善を尽くす。と言う事です。
今、この瞬間、この与えられた状態、この目の前の状況に、不満(執着)を捨て、理性と慈しみで、確り最善を尽くして行動する事です。
与えられた状態、身体(不自由でも)、仕事(こき使われても)、人間関係(嫌いでも)、家(荒ら屋でも)、食事(粗食でも)、勉強(苦手でも)、家庭(歪んでいても)、排便、睡眠に最善を尽くして行動す事です。
目の前の状況の、不満、文句、絶望さえも捨て、心を穏やかにし、理性と慈しみを持って、与えられたこの中で最善を尽くして行動する。
「生かされている」とは、そういう事だと思います。
目の前の事、この状態に最善を尽くす。と言う事です。
見えない何かに生かされている。は他力であり、欲です。
それは、捏造であり、無明であり、執着です。
その欲を捨てて最善を尽くして行動した時に、真理が見えると思います。
方法は、
24時間絶え間なく、心と身体を観察し、
感情で心が揺れた瞬間に感情を捨てる。
即ち、無明を叩き潰して前に進む。
叩き潰せなければ、無明を引きずって、前に前に進む。
しかありません。
これは、Appamādaであり、
仏道であり、
生(活)きる、です。
目の前の事に最善を尽くす事で、初めて周りの生命から、生きる道の手助けをしてもらえるのです。
また、理性と慈しみが無ければ最善にはなりません。
「生かされている」とは、
見えない何かの力に、生かされているのでは無く。
目の前の事(この状態)に最善を尽くす。と言う事です。
今、この瞬間、この与えられた状態、この目の前の状況に、不満(執着)を捨て、理性と慈しみで、確り最善を尽くして行動する事です。
与えられた状態、身体(不自由でも)、仕事(こき使われても)、人間関係(嫌いでも)、家(荒ら屋でも)、食事(粗食でも)、勉強(苦手でも)、家庭(歪んでいても)、排便、睡眠に最善を尽くして行動す事です。
目の前の状況の、不満、文句、絶望さえも捨て、心を穏やかにし、理性と慈しみを持って、与えられたこの中で最善を尽くして行動する。
「生かされている」とは、そういう事だと思います。
目の前の事、この状態に最善を尽くす。と言う事です。
見えない何かに生かされている。は他力であり、欲です。
それは、捏造であり、無明であり、執着です。
その欲を捨てて最善を尽くして行動した時に、真理が見えると思います。
方法は、
24時間絶え間なく、心と身体を観察し、
感情で心が揺れた瞬間に感情を捨てる。
即ち、無明を叩き潰して前に進む。
叩き潰せなければ、無明を引きずって、前に前に進む。
しかありません。
これは、Appamādaであり、
仏道であり、
生(活)きる、です。
目の前の事に最善を尽くす事で、初めて周りの生命から、生きる道の手助けをしてもらえるのです。
また、理性と慈しみが無ければ最善にはなりません。
2012年2月10日金曜日
お釈迦様の最後の言葉
Vayadhammā saṃkhārā appamādena saṃpādethā
諸行(諸々の作られた物)は無常(真理:衰える滅びる性質)です。
アッパマーダ(>不放逸)を完成しなさい
vaya : ① 衰退、滅亡、消滅、衰滅
② 年代(青年、壮年、老年などの)、青春
dhammā : ① 法、教法、教え、真理、正義、義務
② 法に従う、教えに従う
saṃkhārā: ① 行為、形成力、現象
appamādena :
Appamâdo : 不放逸、覚醒、意識がはっきりしている
√mad : 酔う、混乱、狂う
pa+mâda : 酔う状態、狂った状態
a(否定の意味)+(p)+ pamâda : 覚醒とか意識がはっきりしている
saṃpādethā : saṃpādeti : 得る、完遂する、完成させる、努める
諸行(諸々の作られた物)は無常(真理:衰える滅びる性質)です。
アッパマーダ(>不放逸)を完成しなさい
vaya : ① 衰退、滅亡、消滅、衰滅
② 年代(青年、壮年、老年などの)、青春
dhammā : ① 法、教法、教え、真理、正義、義務
② 法に従う、教えに従う
saṃkhārā: ① 行為、形成力、現象
appamādena :
Appamâdo : 不放逸、覚醒、意識がはっきりしている
√mad : 酔う、混乱、狂う
pa+mâda : 酔う状態、狂った状態
a(否定の意味)+(p)+ pamâda : 覚醒とか意識がはっきりしている
saṃpādethā : saṃpādeti : 得る、完遂する、完成させる、努める
2012年2月2日木曜日
2012年2月1日水曜日
パパンチャ(Papañca)とは
2012年1月31日火曜日
仏道とは
・仏道とは、八正道の事です。
Papañcaを解りやすく言えば、
私達は眼耳鼻舌身意の六処に入るデータを好き勝手に捏造(ねつぞう)する、そうして自分だけに限った世界を作るという事。
Papañcaは、真理、苦、悟り、智慧の話をする時に使われる。
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・Appamādaは、三蔵経を包み込む程大きく、仏道そのものです。
(ダンマパダ21偈)
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・Papañca(ねつ造)とNipapañca(幻覚を破る)の一対で仏道の全てを語っている。
(施本:偉大なる人の思考-P112)Papañcaを解りやすく言えば、
私達は眼耳鼻舌身意の六処に入るデータを好き勝手に捏造(ねつぞう)する、そうして自分だけに限った世界を作るという事。
(施本:偉大なる人の思考-P110)
Papañcaは、真理、苦、悟り、智慧の話をする時に使われる。
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(CD: インドゥリア バーワナー(六根の冥想)
ヴィパッサナー冥想の極意)
中部経典 インドゥリア バーワナー スッタ (第152 感官修習経)
Majjhimanikāya 5.10 Indriya bhāvanā sutta
インドゥリア バーワナー スッタは、仏道を全て語っている。
http://appamado-amatapadam.blogspot.com/2012/02/blog-post_13.html
http://appamado-amatapadam.blogspot.com/2012/02/blog-post_13.html
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・善友がいる事、善友と一緒にいる事、善友と付き合う事によって、仏道の全てが完成するのです。
(根本仏教講義→26.人生改良計画 (6)善友は仏道の全て。 より)
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi152.html
2012年1月27日金曜日
Appamādo amatapadaṃ
ブログのタイトルの意味は、「不放逸は不死の道なり」で、パーリ経典 ダンマパダ 21偈からもらいました。
Appamādo → Appamāda は、仏教徒にとっては大変重要な言葉で、不放逸という意味も含まれ、三蔵経がすっぽり入ってしまい仏道そのものです。
お釈迦様の最後の言葉も Appamāda を完成しなさいです。
Appamādo → Appamāda は、仏教徒にとっては大変重要な言葉で、不放逸という意味も含まれ、三蔵経がすっぽり入ってしまい仏道そのものです。
お釈迦様の最後の言葉も Appamāda を完成しなさいです。
不放逸は不死の道なり。
放逸こそ死の道なり。
不放逸の人は死ぬことはない。
放逸の人は死んでいるようなものである。
Appamādo amatapadaṃ,
不放逸は 不死の道
pamādo maccuno padaṃ;
放逸は 死の 道
Appamattā na mīyanti,
不放逸の人は ない 死な
ye pamattā yathā matā.
人は 放逸の人 如く 死の
2012年1月24日火曜日
慈悲は仏教の土台
・慈悲は、仏教の土台です。
・慈悲で「心」を育てなければ、幾ら「真理」を理解しても、「智慧」を発見できず、「仏教」を理解できない。
慈悲の心は、道徳であり、即ち五戒が完成する。五戒とは戒律の事。
戒律は仏教の土台であり、その上に禅定(集中力)が生まれ、智慧を発見する。
戒律を守らないと、正しい禅定が生まれず、真理を理解しても、悟りの智慧は発見出来ない。
戒定慧(三学)
戒は、五戒の事。 仏教の土台。
定は、禅定の事。 仏教の骨組み。 集中力が高まった状態である。
慧は、智慧の事。 智慧は禅定して発見する物。
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■HPの「慈悲の冥想」の説明で長老が以下の話をされておられます。
仏教を実践する上で、土台となる心を育てる
全ての仏道修行において基礎になるもの
「私」を発見する以前に、生命に対する「やさしい心」というのは、 大変必要な条件になります。
http://www.j-theravada.net/3-jihi.html
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■HPの「法の宝【1】<丸太のたとえ-1> ウィセッタ長老」より
戒律(sîra) は道徳であり、根本的な、いわば土台です。集中力、禅(samâdhi)は戒律の土台の上に建てられるものです。智慧(paññâ)、すなわち洞察と悟りは、正しく集中に励むことによって生まれるものです。この「戒律」「集中」「智慧」によってなるこの八正道を成長させる
http://www.j-theravada.net/dhamma/hou-no-takara1.html
≪所感≫
戒律とは五戒の事であり、道徳の事ですので、長老が四無量心の法話の中で言われていた、慈悲は道徳であり即ち五戒が完成する。です。
また、三学は仏教そのものと理解しております。
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■長老の語録より、文献名調査中
「慈悲」で「心」を育てなければ、幾ら「真理」を理解しても、「智慧」を発見できず、「仏教」を理解できない。
・慈悲で「心」を育てなければ、幾ら「真理」を理解しても、「智慧」を発見できず、「仏教」を理解できない。
慈悲の心は、道徳であり、即ち五戒が完成する。五戒とは戒律の事。
戒律は仏教の土台であり、その上に禅定(集中力)が生まれ、智慧を発見する。
戒律を守らないと、正しい禅定が生まれず、真理を理解しても、悟りの智慧は発見出来ない。
戒定慧(三学)
戒は、五戒の事。 仏教の土台。
定は、禅定の事。 仏教の骨組み。 集中力が高まった状態である。
慧は、智慧の事。 智慧は禅定して発見する物。
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■HPの「慈悲の冥想」の説明で長老が以下の話をされておられます。
仏教を実践する上で、土台となる心を育てる
全ての仏道修行において基礎になるもの
「私」を発見する以前に、生命に対する「やさしい心」というのは、 大変必要な条件になります。
http://www.j-theravada.net/3-jihi.html
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■HPの「法の宝【1】<丸太のたとえ-1> ウィセッタ長老」より
戒律(sîra) は道徳であり、根本的な、いわば土台です。集中力、禅(samâdhi)は戒律の土台の上に建てられるものです。智慧(paññâ)、すなわち洞察と悟りは、正しく集中に励むことによって生まれるものです。この「戒律」「集中」「智慧」によってなるこの八正道を成長させる
http://www.j-theravada.net/dhamma/hou-no-takara1.html
≪所感≫
戒律とは五戒の事であり、道徳の事ですので、長老が四無量心の法話の中で言われていた、慈悲は道徳であり即ち五戒が完成する。です。
また、三学は仏教そのものと理解しております。
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
■長老の語録より、文献名調査中
「慈悲」で「心」を育てなければ、幾ら「真理」を理解しても、「智慧」を発見できず、「仏教」を理解できない。
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