本日から、大阪府の摂津で勉強会が始まりました。
(高槻市立総合市民交流センター 3F)
勉強会で、私が頂いた実りです。
(1)捨てる。と、手放す。
(2)この瞬間を意識する。
私は、正月のアラナの宿泊冥想会に参加で、溢れる程の実りを
頂きました。
その後、
「24時間、心と身体の観察して、心が揺れた瞬間に捨てる。
この呼吸を吐き終わるまでに死ぬかも知れない。」
(※絶えず、死を意識する事も、Appamādaです。:プッタタート比丘)
という、訓練をしており、
今、この瞬間瞬間の苦しみからの解放を実感しております。
また、美しい、楽しいと感じて、心は揺れても、
終了宣言をして、対象に執着しない訓練もしております。
「手放すとは、エネルギーを解放する。」
との話を頂き、また一つ苦の滅尽の理解が深まりました。
(捨てる。と、手放す。は同じ事と、理解しています。)
私が、心が揺れた瞬間に捨てていたのは、エネルギーである事。
また、エネルギーを手放す事をイメージする事でも
瞬間瞬間の苦の滅尽になる事を理解しました。
更に、「意識する(瞬間瞬間)という言葉を使う」と
再認識の機会を頂き、より観察が深まりました。
ですから、今は、
24時間、
"この瞬間を意識して"心と身体を観察し、
心が揺れた瞬間に”エネルギーを開放(または手放)して”捨てる。
この呼吸を吐き終わるまでに死ぬかも知れない。
と、訓練をしております。
お陰様で、更に、今、この瞬間の苦しみからの解放を実感しております。
(3)幸せとは、この瞬間、苦しまない。
今、この瞬間の心の揺れを捨てて来ましたが、
「幸せとは、この瞬間、苦しまない。」
との言葉を聞いて、
私の日々の訓練が正しかった事の答え合わせが出来て
良かったです。
(4)無我とは、命の壁が無くなること。
アラナの冥想会で実践した中で、経験した事が、
無我に触れた事である事も、解りました。
・生きとし生けるものの中に、私が入ってしまった。
・他の生命の命と私の命の境が無くなった。
・他の生命の苦しみと私の心の境が無くなった。
また、今回の勉強会では、偶然が重なりました。
・私の誕生日
・勉強会第一回目
・高槻駅近辺は、離れて暮らす娘との大阪で唯一の思い出の場所であり、
今、娘が暮らしている場所
摂津にブッダの教えを益々広げていき、
将来、娘が慈しみと理性を学ぶ場所になることを願っています。
生きとし生けるものに悟りの光が現れます様に。
捨(Upekkhā:意:冷静に観察する事
2012年3月31日土曜日
2012年2月22日水曜日
捨:生かされている。とは
(私感です。)
「生かされている」とは、
見えない何かの力に、生かされているのでは無く。
目の前の事(この状態)に最善を尽くす。と言う事です。
今、この瞬間、この与えられた状態、この目の前の状況に、不満(執着)を捨て、理性と慈しみで、確り最善を尽くして行動する事です。
与えられた状態、身体(不自由でも)、仕事(こき使われても)、人間関係(嫌いでも)、家(荒ら屋でも)、食事(粗食でも)、勉強(苦手でも)、家庭(歪んでいても)、排便、睡眠に最善を尽くして行動す事です。
目の前の状況の、不満、文句、絶望さえも捨て、心を穏やかにし、理性と慈しみを持って、与えられたこの中で最善を尽くして行動する。
「生かされている」とは、そういう事だと思います。
目の前の事、この状態に最善を尽くす。と言う事です。
見えない何かに生かされている。は他力であり、欲です。
それは、捏造であり、無明であり、執着です。
その欲を捨てて最善を尽くして行動した時に、真理が見えると思います。
方法は、
24時間絶え間なく、心と身体を観察し、
感情で心が揺れた瞬間に感情を捨てる。
即ち、無明を叩き潰して前に進む。
叩き潰せなければ、無明を引きずって、前に前に進む。
しかありません。
これは、Appamādaであり、
仏道であり、
生(活)きる、です。
目の前の事に最善を尽くす事で、初めて周りの生命から、生きる道の手助けをしてもらえるのです。
また、理性と慈しみが無ければ最善にはなりません。
「生かされている」とは、
見えない何かの力に、生かされているのでは無く。
目の前の事(この状態)に最善を尽くす。と言う事です。
今、この瞬間、この与えられた状態、この目の前の状況に、不満(執着)を捨て、理性と慈しみで、確り最善を尽くして行動する事です。
与えられた状態、身体(不自由でも)、仕事(こき使われても)、人間関係(嫌いでも)、家(荒ら屋でも)、食事(粗食でも)、勉強(苦手でも)、家庭(歪んでいても)、排便、睡眠に最善を尽くして行動す事です。
目の前の状況の、不満、文句、絶望さえも捨て、心を穏やかにし、理性と慈しみを持って、与えられたこの中で最善を尽くして行動する。
「生かされている」とは、そういう事だと思います。
目の前の事、この状態に最善を尽くす。と言う事です。
見えない何かに生かされている。は他力であり、欲です。
それは、捏造であり、無明であり、執着です。
その欲を捨てて最善を尽くして行動した時に、真理が見えると思います。
方法は、
24時間絶え間なく、心と身体を観察し、
感情で心が揺れた瞬間に感情を捨てる。
即ち、無明を叩き潰して前に進む。
叩き潰せなければ、無明を引きずって、前に前に進む。
しかありません。
これは、Appamādaであり、
仏道であり、
生(活)きる、です。
目の前の事に最善を尽くす事で、初めて周りの生命から、生きる道の手助けをしてもらえるのです。
また、理性と慈しみが無ければ最善にはなりません。
2012年2月10日金曜日
お釈迦様の最後の言葉
Vayadhammā saṃkhārā appamādena saṃpādethā
諸行(諸々の作られた物)は無常(真理:衰える滅びる性質)です。
アッパマーダ(>不放逸)を完成しなさい
vaya : ① 衰退、滅亡、消滅、衰滅
② 年代(青年、壮年、老年などの)、青春
dhammā : ① 法、教法、教え、真理、正義、義務
② 法に従う、教えに従う
saṃkhārā: ① 行為、形成力、現象
appamādena :
Appamâdo : 不放逸、覚醒、意識がはっきりしている
√mad : 酔う、混乱、狂う
pa+mâda : 酔う状態、狂った状態
a(否定の意味)+(p)+ pamâda : 覚醒とか意識がはっきりしている
saṃpādethā : saṃpādeti : 得る、完遂する、完成させる、努める
諸行(諸々の作られた物)は無常(真理:衰える滅びる性質)です。
アッパマーダ(>不放逸)を完成しなさい
vaya : ① 衰退、滅亡、消滅、衰滅
② 年代(青年、壮年、老年などの)、青春
dhammā : ① 法、教法、教え、真理、正義、義務
② 法に従う、教えに従う
saṃkhārā: ① 行為、形成力、現象
appamādena :
Appamâdo : 不放逸、覚醒、意識がはっきりしている
√mad : 酔う、混乱、狂う
pa+mâda : 酔う状態、狂った状態
a(否定の意味)+(p)+ pamâda : 覚醒とか意識がはっきりしている
saṃpādethā : saṃpādeti : 得る、完遂する、完成させる、努める
2012年1月31日火曜日
仏道とは
・仏道とは、八正道の事です。
Papañcaを解りやすく言えば、
私達は眼耳鼻舌身意の六処に入るデータを好き勝手に捏造(ねつぞう)する、そうして自分だけに限った世界を作るという事。
Papañcaは、真理、苦、悟り、智慧の話をする時に使われる。
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・Appamādaは、三蔵経を包み込む程大きく、仏道そのものです。
(ダンマパダ21偈)
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・Papañca(ねつ造)とNipapañca(幻覚を破る)の一対で仏道の全てを語っている。
(施本:偉大なる人の思考-P112)Papañcaを解りやすく言えば、
私達は眼耳鼻舌身意の六処に入るデータを好き勝手に捏造(ねつぞう)する、そうして自分だけに限った世界を作るという事。
(施本:偉大なる人の思考-P110)
Papañcaは、真理、苦、悟り、智慧の話をする時に使われる。
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(CD: インドゥリア バーワナー(六根の冥想)
ヴィパッサナー冥想の極意)
中部経典 インドゥリア バーワナー スッタ (第152 感官修習経)
Majjhimanikāya 5.10 Indriya bhāvanā sutta
インドゥリア バーワナー スッタは、仏道を全て語っている。
http://appamado-amatapadam.blogspot.com/2012/02/blog-post_13.html
http://appamado-amatapadam.blogspot.com/2012/02/blog-post_13.html
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・善友がいる事、善友と一緒にいる事、善友と付き合う事によって、仏道の全てが完成するのです。
(根本仏教講義→26.人生改良計画 (6)善友は仏道の全て。 より)
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi152.html
2012年1月30日月曜日
捨。中道とは、揺らがない心。「捨」
(根本仏教講義→8.苦集滅道 (2)仏陀の苦行から悟りまで)
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi39.html
中道の出発点は、何物にも囚われない心です。
≪抜粋≫
■お釈迦様が真理に出会うまで■
苦行の未、お釈迦さまは、とにかくこんなにからだを痛めつけても仕方がないのだと思いました。また逆に、贅沢しても仕方がないとも思いました。からだをいかにきれいに着飾ってもからだというものは、死んで、そして腐っていく。死んだら焼いてしまいます。いくら母親でも息子が死んでその遺体をずっととっておくことはしません。死んでしまったら捨てるしかありません。死んで捨ててしまうものに、贅沢させる必要はない、また痛める必要もない…。
そして、問題は心なのだということを知り、お釈迦様は心を清らかにする「中道」という方法を発見されたのです。
いわゆる何ものにもとらわれない、
食べ物にもとらわれず適度に食べる、人の言うこともそのまま信じず、自分で考えて判断する。言葉をしゃべるときは、必要な言葉を選んで話す。なんでもかんでも、中道にもっていく。それで悟りを開かれたのです。中道を悟ったのは1日だったという話です。
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
私の所感です。
中道とは、揺らがない心。 即ち「捨」だと思い文献を調査しました。
結果、上記の長老の中道の出発転は、何物にも囚われない心です。 を見つけて、間違いでは無かったと思いました。
何故なら、囚われない心とは、揺れない心であるからです。
心が揺らがないとは、捨の実践であり、理性であり、Appamādaです。
後日)
下記のアーチャン・チャー長老の法話を読んで、私が理解した捨てる。は、正しい事が解りました。
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
アーチャン・チャー長老 書籍:手放す生き方。 より
中道:(P27)
ブッダは、私達が「欲におぼれる道」と「苦行を行う道」と言う二つの両極端な道のどちらを歩む事も、良しとしていませんでした。 そうでは無く、ブッダは私達に「只、快楽に気付きなさい」と説いたのです。 怒り、不安、不満は、修行者の道では無く、俗世の人間の道です。 心の静まった人は、左脇に執着を捨て、右脇に恐れや嫌悪を捨て、正しい実践の道である中道を歩むのです。
実践の道を歩む人は、中道に従わなければ成りません。
それは、「私は、快楽にも苦痛にも興味を持ちません。 私は、それを捨て去ります。」と、言う事です。
ブッダが初転法輪を説いた時、これら二つの極端さに付いて語られました。
何故なら、ここに私達の執着の源があるからです。
幸福へ欲望が片方から蹴り飛ばし、苦しみや不満がもう一方から蹴り飛ばす。
この二つは、いつも私達を取り囲んでいるものです。
ですが、私達が中道を歩む時、貴方は、それらの両方を捨て去るのです。
中略
ブッダは、私達に、その極端さを捨てる事を説きます。
これこそが、正しい実践の道であり、生死から脱する道なのです。
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi39.html
中道の出発点は、何物にも囚われない心です。
≪抜粋≫
■お釈迦様が真理に出会うまで■
苦行の未、お釈迦さまは、とにかくこんなにからだを痛めつけても仕方がないのだと思いました。また逆に、贅沢しても仕方がないとも思いました。からだをいかにきれいに着飾ってもからだというものは、死んで、そして腐っていく。死んだら焼いてしまいます。いくら母親でも息子が死んでその遺体をずっととっておくことはしません。死んでしまったら捨てるしかありません。死んで捨ててしまうものに、贅沢させる必要はない、また痛める必要もない…。
そして、問題は心なのだということを知り、お釈迦様は心を清らかにする「中道」という方法を発見されたのです。
いわゆる何ものにもとらわれない、
食べ物にもとらわれず適度に食べる、人の言うこともそのまま信じず、自分で考えて判断する。言葉をしゃべるときは、必要な言葉を選んで話す。なんでもかんでも、中道にもっていく。それで悟りを開かれたのです。中道を悟ったのは1日だったという話です。
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私の所感です。
中道とは、揺らがない心。 即ち「捨」だと思い文献を調査しました。
結果、上記の長老の中道の出発転は、何物にも囚われない心です。 を見つけて、間違いでは無かったと思いました。
何故なら、囚われない心とは、揺れない心であるからです。
心が揺らがないとは、捨の実践であり、理性であり、Appamādaです。
後日)
下記のアーチャン・チャー長老の法話を読んで、私が理解した捨てる。は、正しい事が解りました。
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アーチャン・チャー長老 書籍:手放す生き方。 より
中道:(P27)
ブッダは、私達が「欲におぼれる道」と「苦行を行う道」と言う二つの両極端な道のどちらを歩む事も、良しとしていませんでした。 そうでは無く、ブッダは私達に「只、快楽に気付きなさい」と説いたのです。 怒り、不安、不満は、修行者の道では無く、俗世の人間の道です。 心の静まった人は、左脇に執着を捨て、右脇に恐れや嫌悪を捨て、正しい実践の道である中道を歩むのです。
実践の道を歩む人は、中道に従わなければ成りません。
それは、「私は、快楽にも苦痛にも興味を持ちません。 私は、それを捨て去ります。」と、言う事です。
ブッダが初転法輪を説いた時、これら二つの極端さに付いて語られました。
何故なら、ここに私達の執着の源があるからです。
幸福へ欲望が片方から蹴り飛ばし、苦しみや不満がもう一方から蹴り飛ばす。
この二つは、いつも私達を取り囲んでいるものです。
ですが、私達が中道を歩む時、貴方は、それらの両方を捨て去るのです。
中略
ブッダは、私達に、その極端さを捨てる事を説きます。
これこそが、正しい実践の道であり、生死から脱する道なのです。
2012年1月27日金曜日
Appamādo amatapadaṃ
ブログのタイトルの意味は、「不放逸は不死の道なり」で、パーリ経典 ダンマパダ 21偈からもらいました。
Appamādo → Appamāda は、仏教徒にとっては大変重要な言葉で、不放逸という意味も含まれ、三蔵経がすっぽり入ってしまい仏道そのものです。
お釈迦様の最後の言葉も Appamāda を完成しなさいです。
Appamādo → Appamāda は、仏教徒にとっては大変重要な言葉で、不放逸という意味も含まれ、三蔵経がすっぽり入ってしまい仏道そのものです。
お釈迦様の最後の言葉も Appamāda を完成しなさいです。
不放逸は不死の道なり。
放逸こそ死の道なり。
不放逸の人は死ぬことはない。
放逸の人は死んでいるようなものである。
Appamādo amatapadaṃ,
不放逸は 不死の道
pamādo maccuno padaṃ;
放逸は 死の 道
Appamattā na mīyanti,
不放逸の人は ない 死な
ye pamattā yathā matā.
人は 放逸の人 如く 死の
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