2012年2月24日金曜日

「生きとし生けるもの」の中に「私」が入ってしまった。

私の宿泊冥想会の体験談が、日本テーラワーダ仏教の月刊誌Patipada3月号に掲載されました。
2011/12/29~2012/1/3

たった6日で溢れる程の実りがありました。

アラナ精舎で12月29日~1月3日に宿泊冥想実践会が開催されました。
宿泊者は、男女各2名で愛知からの参加者もおられました。
朝は4時半に起床、5時半に読経、夜10時までは、冥想、仏教の勉強、木岡様へのパーリ語についての質疑応答と有意義な年末年始を過ごせました。

■「生きとし生けるものが幸せでありますように」を1万回。
初日の宿泊は私一人。日が暮れる頃、座る冥想をしている時に慈悲(慈悲喜捨)の冥想の慈である「生きとし生けるものが幸せでありますように」を千回唱えたくなり、iPodのカウンターで回数を記録しながら唱えました。
苦しかったですが、心も落ち着き思考が止まる事も経験し2千回唱えました。

前週「慈悲の心は仏教の土台であり、その土台が無いと正しい智慧が生まれ無いのでは?」と思い長老の資料を調べて正しいと確信、慈悲の重要性を改めて心に刻んだばかりでした。

次の日からは朝4時半起床後に千回、昼食後に千回、就寝前に千回唱える事を基本にして、大晦日に5千回、元旦には1万回唱えました。
1万回の時に無明を引きずって前に進んだのですが、2回程、強烈な昏沈睡眠に負けて気絶したように後ろに倒れる。と言う落ちまで付きました。

毎日唱えると、一言一言に念が入るようになり、慈経、等で説かれている多岐多種の生命毎に上下360度の十方向へ一斉に慈悲の念を放つ事ができるようになりました。(一番陥りやすい出来たつもり?)

■「私」が「生きとし生けるもの」の中に入ってしまった。
毎日唱えていく中で、悟りの光が現われる(捨)と、幸せであり(慈)、悩み苦しみが無くなり(悲)、願い事が叶えられた(喜)事に気が付きました。

更に「私の親しい人」と「私の嫌いな人」と「私を嫌っている人」も「生きとし生けるもの」に入り、「仏教は生命の教えである」と発見した瞬間、「私」さえも「生きとし生けるもの」の中に入ってしまい生命のネットワークの中に「私」が居ました。

今は「生きとし生けるものに悟りの光が現れますように」と唱え、私を含む全生命に対して念を送っております。
が、この変化も流れの途中ですので、これからも様々な道を辿って行くのでしょう。

■畳一畳の中で歩く冥想。
ヴィパッサナー冥想の歩く冥想では、極小間隔(1cm未満の感覚)単位で瞬間瞬間、足の感覚を感じながら確り実況中継を繰り返しました。
その結果、畳一畳の幅を3分、道場一方向を12分で焦り無く集中して移動できるようになりました。
この超スローを実践した後、いつものように一歩を3秒程に戻すと、開花する花の連続写真のように感覚が細かくリアルに入るようになりました。
また、町を歩く時に歩く冥想をしても集中力が持続し妄想しなくなりました。

■夢の中で抱きしめた娘。
2年前に妻が3才の娘を連れて家を出てから、今までに娘に会わせてもらえたのが2回で合計2時間半です。5才になった娘が私に会いたがっていると義母から聞いています。私は仏教を帰依所として心の安定を保っていますが、娘の父への渇愛が心配です。冥想会最後の夜に夢の中で娘を抱きしめていました。

■苦しんでいる人達は、私の姿。
最終日の3時に冥想会が終了した後も冥想を続け、最後に暗闇の燈火に浮かび上がる世尊の前で慈悲の冥想をさせて頂きました。
途中から、孤児達、孤独な老人や若者達、病気で苦しむ生命、戦火の兵士達、戦争で家族を失った人々、死に逝く生命、等々、次から次へと現れて来ましたが、その全ての姿は、私自身にも追い被さろうとしている数々の恐怖(苦)である事に気付きました。

全ての命は、私と同じ命で、互いの苦しみや、命にさえも境が無いような気がしました。(無我の一種?)
だから、慈しみのある生命が、ネットワークの中に居る事を快く受け入れてもらえる。
慈しみは、生命の基礎であり仏教の土台だと更に心に刻みました。

■冥想会を通して。
一切の生命は平等、心の成長こそが真の実りである事を理解しました。
私が精進して一つの生命として成長する事で、私の周りの生命が幸せを感じる事。

私の心が結花(娘)にとって帰依所になる事が、父に会えない娘が時空を乗り越えて幸せになれる。と、答えが出ました。

親として…、
私の宝物は娘の「心」です。
結花の「心」が、理性と慈しみに溢れ幸せでありますように。

生きとし生けるものに悟りの光が現れますように。

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