2012年2月29日水曜日

仏教の精髄

プッタタート比丘(三蔵の中のダイヤモンド)より抜粋
http://space.geocities.jp/tammashart/book-sanzou.html

仏教の精髄とは何でしょうか。
それは、

サッペー タンマー ナーラン アピニヴェサーヤ
Sabbe dhammā nālaṃ abhinivesāyā
何物も、私、私のものと執着するべきではない

というブッダの言葉です。
これが三蔵の中のたった一粒のダイヤモンドです。
それが拡大されていろんな形になりました。

ブッダは
「誰も私は、私の、ということにこだわるべきではない、
という言葉を聞いた人は、仏教のすべてを聞いた人であり、
執着しないために実践する人は、仏教のすべての実践をする人であり、
執着しない実践の結果を受け取る人は、仏教のすべての実践の結果を受け取る人である」
と言っています。

2012年2月27日月曜日

仏教の真髄を掘り出す道具

仏教の「信」は、手を合わせてお願いをする信仰では無く、ブッダの法を理解、納得、実践して確信する。です。

豪華絢爛に装飾された仏教の扉を開け、奥に光り輝くブッダの真髄を取り出す道具(方法)を紹介します。

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プッタタート比丘(三蔵の中のダイヤモンド)より抜粋
http://space.geocities.jp/tammashart/book-sanzou.html

タンマを信奉する時、自由であって下さい。その為に、仏教の中のダイヤモンドと、ダイヤモンドを掘り出す道具の両方を差し上げます。これから差し上げる物を、仏教の中のダイヤモンドと言います。つまり、タンマを受け入れ信奉する上での最高の自由です。

「カーラーマ経」には、仏教を信奉する上での自由が述べられています。
それは最高の自由であり、最高に民主的です。
内容は、カーラーマの人々が、「どう受け入れたら良いのか分から無いほど、色んな教義を教える人がいるので、どうしたら良いでしょう」と質問した事に対し、ブッダが、カーラーマ経の十項目と呼ばれている物で答えた物です
初めの三項目は聞いたこと、或いは勉強した事に関してです。
1.長く言い伝えて来たからといって信じてはいけ無い。
2.長く伝承されてきたからといって信じてはいけ無い。
3.評判になっているからといって信じてはいけ無い。
4.経典、或いは教本の中にあるからといって信じてはいけ無い。
仏教の場合、タラバヤシの葉に書かれた教えの束を教典と言います。仏教の初期にはまだ教えを書き留める事さえなく、数百年物間、記憶と口伝によって継承されて来て、その後文字で記され、経典として編纂されました。それまではただ「法」「律」と呼び、耳で聞いて暗唱し、記憶しておくだけでした。経典については第四項だけです。
つぎの四項は考え、或いは考える時の理由に関してです。

5.現在 logic と呼ぶ論理的方法で考えて、信じてはいけ無い。
誰かの教えが論理的に正しくても、その理論自体が誤りであったり、理論の用い方が誤っている事もあるので、直ぐには信じてはいけ無い。

6.意味的に理論に合っているからといって信じてはいけ無い。
ブッダの時代に「意味」と呼んだのは、今西洋で言う Philosophy、私達のタイ語では哲学と言います。呼び方が違います。哲学は Philosophy ではありません。
Philosophy は一つの見方であり、まだ哲学ではありません。しかしその様に呼ばれているので、Philosophy の様な考え方を、実践する教えとして信じる道具にし無いで下さい、と言う事です。

7.状況によって信じてはいけ無い。
つまり、常識と呼ばれる気軽に考える習慣に従って信じてはいけ無い。現在人は好んで常識と言う言葉を使いますが、仏教では、ブッダがこの項目で禁じているので、使う事はできません。

8.自分の見解に耐えられるからといって信じてはいけ無い。
自分に何らかの見解がある場合、相手が自分の見解に合う様な説得をして来ても、直ぐには信じてはいけ無い。何故なら自分の見解が間違っている事もあるから。
残りの二項は話し手、或いはその教義を説く人に関してです。

9.話す人が信頼できそうだからといって信じてはいけ無い。
この項目は、話す人の言葉や態度が信頼できそうだと言う意味です。

10.話しているサマナ(出家)が自分の先生でも信じてはいけ無い。

これを良く理解して、いま挙げた十の理由で、簡単に信じてしまわ無い様にして下さい。しかしここで申し上げたいのは、ブッダは、先に挙げた十種類の物に関わるなと禁じてはいません。十分熟慮する資料として、話を聞いてもいいし、噂を聞いてもいいのです。
しかし直ぐには信じ無いで、それで苦を無くす事が出来るかどうか熟慮して、もし苦しみが無くなりそうなら、取りあえず実践してみて、真実である事が証明されてから、それから信じなさいと教えています

Kesamuttisutta
475
Etha tumhe, kālāmā, mā anussavena, mā paramparāya, mā itikirāya, mā piṭakasampadānena, mā takkahetu, mā nayahetu, mā ākāraparivitakkena, mā diṭṭhinijjhānakkhantiyā, mā bhabbarūpatāya, mā samaṇo no garūti. Yadā tumhe, kālāmā, attanāva jāneyyātha— ‘ime dhammā akusalā, ime dhammā sāvajjā, ime dhammā viññugarahitā, ime dhammā samattā samādinnā ahitāya dukkhāya saṃvattantī’ti, atha tumhe, kālāmā, pajaheyyātha.

2012年2月24日金曜日

「生きとし生けるもの」の中に「私」が入ってしまった。

私の宿泊冥想会の体験談が、日本テーラワーダ仏教の月刊誌Patipada3月号に掲載されました。
2011/12/29~2012/1/3

たった6日で溢れる程の実りがありました。

アラナ精舎で12月29日~1月3日に宿泊冥想実践会が開催されました。
宿泊者は、男女各2名で愛知からの参加者もおられました。
朝は4時半に起床、5時半に読経、夜10時までは、冥想、仏教の勉強、木岡様へのパーリ語についての質疑応答と有意義な年末年始を過ごせました。

■「生きとし生けるものが幸せでありますように」を1万回。
初日の宿泊は私一人。日が暮れる頃、座る冥想をしている時に慈悲(慈悲喜捨)の冥想の慈である「生きとし生けるものが幸せでありますように」を千回唱えたくなり、iPodのカウンターで回数を記録しながら唱えました。
苦しかったですが、心も落ち着き思考が止まる事も経験し2千回唱えました。

前週「慈悲の心は仏教の土台であり、その土台が無いと正しい智慧が生まれ無いのでは?」と思い長老の資料を調べて正しいと確信、慈悲の重要性を改めて心に刻んだばかりでした。

次の日からは朝4時半起床後に千回、昼食後に千回、就寝前に千回唱える事を基本にして、大晦日に5千回、元旦には1万回唱えました。
1万回の時に無明を引きずって前に進んだのですが、2回程、強烈な昏沈睡眠に負けて気絶したように後ろに倒れる。と言う落ちまで付きました。

毎日唱えると、一言一言に念が入るようになり、慈経、等で説かれている多岐多種の生命毎に上下360度の十方向へ一斉に慈悲の念を放つ事ができるようになりました。(一番陥りやすい出来たつもり?)

■「私」が「生きとし生けるもの」の中に入ってしまった。
毎日唱えていく中で、悟りの光が現われる(捨)と、幸せであり(慈)、悩み苦しみが無くなり(悲)、願い事が叶えられた(喜)事に気が付きました。

更に「私の親しい人」と「私の嫌いな人」と「私を嫌っている人」も「生きとし生けるもの」に入り、「仏教は生命の教えである」と発見した瞬間、「私」さえも「生きとし生けるもの」の中に入ってしまい生命のネットワークの中に「私」が居ました。

今は「生きとし生けるものに悟りの光が現れますように」と唱え、私を含む全生命に対して念を送っております。
が、この変化も流れの途中ですので、これからも様々な道を辿って行くのでしょう。

■畳一畳の中で歩く冥想。
ヴィパッサナー冥想の歩く冥想では、極小間隔(1cm未満の感覚)単位で瞬間瞬間、足の感覚を感じながら確り実況中継を繰り返しました。
その結果、畳一畳の幅を3分、道場一方向を12分で焦り無く集中して移動できるようになりました。
この超スローを実践した後、いつものように一歩を3秒程に戻すと、開花する花の連続写真のように感覚が細かくリアルに入るようになりました。
また、町を歩く時に歩く冥想をしても集中力が持続し妄想しなくなりました。

■夢の中で抱きしめた娘。
2年前に妻が3才の娘を連れて家を出てから、今までに娘に会わせてもらえたのが2回で合計2時間半です。5才になった娘が私に会いたがっていると義母から聞いています。私は仏教を帰依所として心の安定を保っていますが、娘の父への渇愛が心配です。冥想会最後の夜に夢の中で娘を抱きしめていました。

■苦しんでいる人達は、私の姿。
最終日の3時に冥想会が終了した後も冥想を続け、最後に暗闇の燈火に浮かび上がる世尊の前で慈悲の冥想をさせて頂きました。
途中から、孤児達、孤独な老人や若者達、病気で苦しむ生命、戦火の兵士達、戦争で家族を失った人々、死に逝く生命、等々、次から次へと現れて来ましたが、その全ての姿は、私自身にも追い被さろうとしている数々の恐怖(苦)である事に気付きました。

全ての命は、私と同じ命で、互いの苦しみや、命にさえも境が無いような気がしました。(無我の一種?)
だから、慈しみのある生命が、ネットワークの中に居る事を快く受け入れてもらえる。
慈しみは、生命の基礎であり仏教の土台だと更に心に刻みました。

■冥想会を通して。
一切の生命は平等、心の成長こそが真の実りである事を理解しました。
私が精進して一つの生命として成長する事で、私の周りの生命が幸せを感じる事。

私の心が結花(娘)にとって帰依所になる事が、父に会えない娘が時空を乗り越えて幸せになれる。と、答えが出ました。

親として…、
私の宝物は娘の「心」です。
結花の「心」が、理性と慈しみに溢れ幸せでありますように。

生きとし生けるものに悟りの光が現れますように。

2012年2月22日水曜日

捨:生かされている。とは

(私感です。)

「生かされている」とは、
見えない何かの力に、生かされているのでは無く。
目の前の事(この状態)に最善を尽くす。と言う事です。

今、この瞬間、この与えられた状態、この目の前の状況に、不満(執着)を捨て、理性と慈しみで、確り最善を尽くして行動する事です。

与えられた状態、身体(不自由でも)、仕事(こき使われても)、人間関係(嫌いでも)、家(荒ら屋でも)、食事(粗食でも)、勉強(苦手でも)、家庭(歪んでいても)、排便、睡眠に最善を尽くして行動す事です。

目の前の状況の、不満、文句、絶望さえも捨て、心を穏やかにし、理性と慈しみを持って、与えられたこの中で最善を尽くして行動する。

「生かされている」とは、そういう事だと思います。
目の前の事、この状態に最善を尽くす。と言う事です。

見えない何かに生かされている。は他力であり、欲です。
それは、捏造であり、無明であり、執着です。
その欲を捨てて最善を尽くして行動した時に、真理が見えると思います。

方法は、
24時間絶え間なく、心と身体を観察し、
感情で心が揺れた瞬間に感情を捨てる。
即ち、無明を叩き潰して前に進む。
叩き潰せなければ、無明を引きずって、前に前に進む。
しかありません。

これは、Appamādaであり、
仏道であり、
生(活)きる、です。

目の前の事に最善を尽くす事で、初めて周りの生命から、生きる道の手助けをしてもらえるのです。
また、理性と慈しみが無ければ最善にはなりません。

2012年2月18日土曜日

プッタタート比丘との出会い。

私は、全ての飾りや鎧を取り払った、
世尊だけのお言葉で、迷い(執着)を完全に捨てたい。
との思いで、色々な仏教と関わってきました。

本日、ターン・プッタタート比丘の法話の翻訳と出会いました。
とても興味深い内容でした。

暫く、ターン・プッタタート比丘の説法の、理解、
検証(偉そうな事を言って済みません)、実践を試みます。
http://space.geocities.jp/tammashart/index.html
http://sabbe-dhamma-nalam-abhinivesaya.blogspot.jp/

2012年2月16日木曜日

捨。冥想は、捨てる訓練

(“悟りたい”人が悟れない理由)より
http://gotami.j-theravada.net/2006/07/dhammacast-21.html

「悟りたい」は、執着。
「幸福に成りたい」も、執着。
「苦しみを無くしたい」は、無執着。

仏教は、『執着を捨てる』ことを教えます。

冥想は、捨てる訓練。
仏教の冥想法は、「捨てる訓練」なのです。

2012年2月15日水曜日

捨。智慧、禅定に執着しない。

13.もうひとつの生き方 I (1)智慧もサマディも悟りではありません
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi63.html

(1)智慧もサマディも悟りではありません

■完全な悟りはどうやって得るのか■
仏教の世界で、一番優れていたと言われるのはお釈迦さまの一番弟子であるサーリプッタ尊者です。サーリプッタ尊者ほど、仏教の話を明確に説明できる人はいなかったのです。ですので、いろいろな修行者たちが悩んだとき、問題にぶつかったとき、彼らを解決に導いてあげたのは、ほとんど、サーリプッタ尊者だったのです。

ある日、サーリプッタ尊者のところへ、ウパワーナという名のお坊さんが来て、こういうふうに質問するのです。「サーリプッタ尊者、『智慧』 (vijjâ) によって完全な悟り、完全な解脱を得ることはできますか」尊者の答えはこうでした。「いえ、できません」

そこでウパワーナは次の質問をするのです。「では『行』(carana) によって、完全な悟り、完全な解脱を得ることはできますか」

これはちょっと説明しなければわからないと思います。『行』というのは『生き方』のことなのですが、一般的な言葉で言うと、『道徳的な生き方』ということになるかと思います。何も悪いことをしないで良いことだけして、嘘も言わない、大変正しい道徳的な生き方、戒律をきちんと守って生きる、生き方。

また、瞑想して集中力を持ち、サマディと呼ばれる状態を完成させることも、この『行』に入ります。瞑想のサマディというのは、第一禅定、第二禅定など、だいたい八種類くらいに分かれています。つまりこのときウパワーナ僧が尋ねたのは、ここまで含めた内容、心もできているという状態になることだったと考えられます。「智慧で最終解脱が得られないなら、行でもって最終解脱が得られますか」と聞いたのです。しかし答えはやはり「得られません」というものでした。

そこで三番目の質問は、「それなら智慧と行、この2つがあれば最終解脱が得られますか」答えはやはり「得られません」でした。

そこで四番目の質問をします。「では智慧と行のどちらも関わりなく、最終解脱を得ることができますか」やはり答えは同じ、「得られません」でした。

なぜこのような質問をしたかというと、仏教においては、智慧と行という2つは、大変大切な修行だと認識されていたからなのです。どちらがも欠かせない仏教の2本柱だと、誰もが思っていたのです。日本の『箸』のようなものですね。何かをつかむには、2本ともなくてはいけません。

ウパワーナ僧は困ってしまって、片方でもだめだし、両方あってもだめ、だからといって両方やめてもだめだという、一体全体、何をおっしゃりたいのですか、と問いただしました。  そこでサーリプッタ尊者は次のように説明されたのです。

智慧に執着しないこと
「もし私が智慧(vijjâ)によって人は悟ることができると言えば、執着があっても『悟った』というふうに解釈したことになります」…「智慧がある」つまり、「ものごとが見えている」ということ自体が、自分にとって何か意味あるものが『ある』ということにとなってしまう。つまり「そこに、智慧のある自分がいる」状態なのです。自分がいて、その自分に、「智慧」があるのです。この場合は、智慧といっても単なる知識ではなくて、「無常」に対する智慧なの で、大変超越した智慧 のことです。しかし、 それでも「智慧がある」という場合、智慧に執着しているのです。「智慧がひらめいた」ということ自体は悟りではないのだということを、尊者は言っておられるのです。智慧があっても、「私には、智慧があるのだ」という状態でいると、そこには、とらわれがある、執着があるのです。悟りというのは、無執着の状態であって、私もいないし、私のものもない状態なんですね。

サマディに執着しないこと
2番目の質問に対する説明も、同じなんですね。生き方を完成したならば、あるいは、瞑想してサマディが究極的なレベルまで達したならば、それが悟りかというと、違う。そこにもまた、「サマディが完成した」という、執着がある。それで悟れるというのなら、執着があるまま悟ることができると、言ったことになるのだと。

「行」ということを、少々説明してみましょう。ふつう、「行」というと、修行すること、善い行いをすることなどが考えられます。ここでは「悟りに至る行」に対する質問ですので、一般の修行とは比べられないほど、レベルの高いものを意味します。ここで言う「行」は、瞑想の経験のことです。瞑想すれば「サマディ」という、普通の人に経験できないほど高度な、精神統一が生まれます。仏教では、精神統一も究極的なレベルまで上達する方法を教えています。サマディ状態には、8つのレベルがあります。最初の4つのレベルでは、からだと心の、完全な喜悦感が現れます。5番目のレベルでからだに対する意識が完全に消えて、心だけを感じるようになります。8番目まで達すると、心も、あるかないかわからないほど、集中力が高まります。集中力には、これ以上の成長はありません。8番目は、サマディの最高位です。心が欲と怒りで汚れていると、1番目のサマディでさえも、作ることができません。8番目になると「自分がいる」と感じられないほど成長していますので、心の汚れはすっかり休眠状態になっているため「悟り」だと勘違いする恐れがあります。もし「私には、サマディ、行 ( carana ) がある。ゆえに悟っている」と思うならば、それは解脱ではなく、サマディという状態を『持っている』ということになります。

では、智慧(vijjâ) と行(carana) 、両方が完成したらどうなるかというと、同じことで、やはり『執着があり』ながら『悟った』という矛盾になるのです。

また、少し説明してみましょう。ここで執着というのは、欲や物を欲しがる、ごく一般的な心のことをいっているのではありません。8番目までサマディを作っている行者の、サマディに対する執着、智慧に対する執着のことなのです。究極的な智慧、究極的なレベルの、サマディ、その両方があっても、その人にはその智慧が『あり』禅定が『ある』という問題があります。それは執着であり悟りではない、そう言うのです。

4番目の質問は、簡単です。それでは、智慧(vijjâ) も行(carana)もなくても悟れますかという質問です。もしそうであるならば、一般人も皆、悟っていることになります。そんなことはありませんね。

■悟りには主語がない■
そして、尊者はこう説明するのです。智慧ある人、サマディを持ち徹底的な集中力を持つ人はありのまま、現象を観ています。自分の解釈も論理も一切ありません。すべての現象がどのように生まれて消えるかということを観られるのは、この超越した智慧と超越した集中力がある人だけなのです。そのような人が超越した智慧と超越した集中力をもって、ありのままにものごとを観ていると「最終解脱は起こるのです」…それが答えでした。

言葉を超えた智慧が生まれても、それは解脱じゃない。すべての現象が無常であり苦であること、無我であることを感じ続けていて、精神的に落ち着いていても、それ自体は悟りということにはならない。しかし、このようにものごとを観ていくと、心は何ものにもとらわれない状態を作るようになる。

そもそも、心とは「取る」「とらえる」ものです。「心」という何かがあるのではなく、対象をとらえるのが心であり、瞬間瞬間の作用が心なのです。だから、何ものにもとらわれない心というのは、あり得ない話なんです。ですから、仏教では、この状態に、「主語」がないのです。主語なしに『解脱』『涅槃』と呼びます。

そこには心もないし、とらえるものもないということですから、言葉では、何も言えないんですね。

(次号に続く) (スマナサーラ師講義より構成しました)

http://www.j-theravada.net/kogi/kogi64.html
(2)頼りになるのは覚者だけ
先月は「悟り」とはどういうものかを、サーリプッタ尊者の言葉から見てきました。
少しふり返ってみますと、先月のお話の中で、智慧もサマディも悟りではないという話がありましたが、だからといって、智慧なしに、サマディなしに、悟りがあるかというとそれは違う。智慧とサマディによってものごとがありのまま見える。ありのまま見える人が解脱を達成できる。智慧もサマディも、ありのまま見るための「道具」だということなのです。解脱に到達するためのハシゴのようなものです。解脱というのは「執着する心」がない状態です。

■心とは■
「心」の定義はというと、対象をつかむということが「心」です。なにかをつかまえて認識する。音を聞いて認識する。それは心。形を見て「見えた」と認識する。それが心。何か考えて認識するのが心の働き。心はいつも、次から次へと、何かをつかまえています。永久的に止まることなく、次から次へと。外の世界につかまえるものがなければ、自分の方へ、回転する。自分で回転することができますからね。それは、恐ろしいことです。いつまでも心は続けるのです。対象をつかまえるのが心であれば、対象をつかまえなければ、そこに、心はないということなのです。人間に説明できるのはそこまでですからと、お釈迦さまは、話を終わられます。

2012年2月14日火曜日

捨。仏教は、突き詰めれば「捨てる」と言う事に尽きる。

(「震災と祈り」サンガジャパンVol. 6 「落ち着き」だけが「自分のもの」になる)

≪抜粋≫
仏教の真理は、ひと言で言えば「捨てる」
仏教の、悟りのポイントは、ただそれだけなのです。
仏教は突き詰めれば「捨てる」ということに尽きるのです。

長老方、指導者たちは、いつでも「捨てたら楽」だということを言っているのです。
お釈迦様も「私の物で無い物は、捨てなさい」と同じ言葉をずっと説かれます。

仏教がポイントとする姿勢というのは、捨てて意欲だけ持つ、ということです。
強力な意欲が必要です。  「やり抜く」という負けず嫌いが必要です。

≪以下 原文≫

■「したい」と、言う気持ちを捨てる。

アーチャン・チャーという有名なお坊さんがいます。

田舎のお坊さんで、外国語は何もわからず、しかも森の中で生活していたのですが、世界中で有名なのです。
高名な弟子たちもたくさんいます。  立派なお坊さんですが、説法するときはあまり難しい仏教用語などは何も言わず、そこらへんにいる犬猫の話やら、牛の話やらばかりします。
しかし、すごいパワーがあります。

そのお坊さんが、ずっと言っている一つの言葉があるのです。
私は英語でしか読んでいませんが、「let go(手放す)」、いわゆる「放っておけ」という言葉です。
その言葉を中心に据えて、ずっと教えていました。  その教えの結果として、かなりの人々が仏教を経験していきました。

お釈迦様も同じ言葉をずっとおっしゃっています。
「私のものでないものは捨てなさいよ」と説かれます。

「これが私ですか」「これが私ですか」と、問いかけるやり方で修行する方法もあります。
感覚、身体、気持ち、あるいは大事なものなどを、「私だろうか」と。
そして「私でないのだから捨てます」と放っておけるようにするのです。

「捨てる」「放っておく」「気にしないことにする」
という能力が身につくと、かなり速いスピードで成長して、悟りに達します。

対して、「知りたい」「悟りたい」などと、「○○○○したい」が入ると終わり。  そこは一般人が引っ掛かってしまうところです。  「そんなこと言っても、『やりたい、したい』という気持ちがなければできないでしょう。」と考えてしまうのです。

そこは、一人一人がなんとか解決しなくてはいけないポイントなのです。

■自分とは何かを調べ、捨てていく
目標をつくって頑張るのは、世の中で一般的なやり方です。  「これができるようになるまで頑張るぞ!」などとよく言いますね。

仏教がポイントとする姿勢というのは、捨てて意欲だけ持つ、ということです

やることはやるのですが、「やりたい、やりたい」ではないのです。  「何のため」とか、「このほうがこんなにいいことがあるから」という目的や理由はなく、「やる」という意欲だけ必要だということです。

ですから、
強力な意欲が必要です。  「やり抜く」という負けず嫌いが必要です。

しかし、「やりたい、やりたい」というのはダメです。  「やりたい、やりたい」というのは、自我が絡んでいます。
自分という錯覚があって、やりたくなります。  それでは、いくら冥想をしても、何年やっても悟りには達しません。

冥想にはほかならず結果がありますから
冥想を続けたければ、落ち着いてはいきます。  長いあいだ、清らかな心ではいられます。

しかし、「自分」という気持ちが入っている限りは、悟りという結果にはならないのです。

「自分」という気持ちを、はじめから捨てることができない人々は、「自分」とは何かと調べてみるのです。
「これが『自分』ですか」「これが『自分』ですか」と。  そして、そうでないものは、引っ掛からないで捨てることにするのです。

たとえば、冥想をすると、最初は痛みが出ます。
次に「自分」が現れてくるのです。  「この痛みだけ、なんとかならないか」などと思います。  それは、痛みに引っ掛かって執着しているのです。

このとき、「痛みとは『私』でしょうか」と調べてみるのです。
そして、「『自分』ではないでしょう。では放っておきましょう」というふうになれれば、冥想は成功します。
あるいは、このとき逆に、「なるほど『私』『私』とは、痛みがあるから生まれたものだ。ああ、『私』というものは
あるわけがないのだ」とわかると、そこで悟りの段階をひとつ進むことができます。

冥想が成功しない人々は、
だいたい、私のこの話を聞いて、「私とはこういうものだ」ですとか、私が言ったことをただ繰り返して言うのです。
人の言ったことをそのまま持ってくるようなインチキやごまかしをするわけですから、「あ、この人は悟らないだろう」と思います。

受け売りではなくて、もし自分でわかったら、これはすごい力です。
わざわざ私に報告しなくても、わかります。

■比較して言う「無常」は、真の無常では無い。
無常を知っている事で悟りに達する、と言うのは当たり前です。
ここで言う無常とは、
究極的な無常です。
一般に言われる無常は、何か無常で無い物に比較して感じる無常であって、それは究極的な無常ではありません。

中略

春に咲く桜にも、「ああ、花は散って無常だなあ」と言ったりするとでしょう。
その場合は、
桜の花が無常で、桜の木は無常でない訳です。
一年の内に精々一週間位しか花盛りが無い「花」の方を無常だと言うのです。
どうしても何か、無常で無い物に比較しています。
しかし、
究極的には、無常でない物は、存在するもしないのです。

中略

■修行は、「私」が無い世界
悟りが早いか遅いかは、その人の固定概念がどんな程度かというところで差がでます。
固定概念があると成り立たないのです。

その固定概念の中でも大きなものが、「私」です。

修行は、最初から「私」がない世界です。
語るのは、修行者が、「今のこのような現象をこのように見ているのだ」と、現状を説明するだけの世界です。

中略

冥想では、指導者はやり方を教えるだけで、余り助けてあげるところはありません。
そして、やってみれば、悟りに達します。
そんなにややこしい事でも、依存する世界でも無いのです。

中略

指導者が悟らせるなどと言う事はあり得ないのです。
ですから、タイのアーチャン・チャー長老も「let go、let go、let go、let go」と言うだけで、解った人がブッダの教えを経験する。と言う事なのです。

■仏教の真理は、ひと言で言えば「捨てる」

私が覚えているアーチャン・チャー長老のエピソードをひとつだけご紹介します。
長老のお寺は、森のお寺でした。  あるとき、ひどい風雨で木なども倒れて無茶苦茶になって、それをみんなで掃除していたときのことです。  修行に来ている人々みんなで、木を切ったり捨てたり、いろいろ考えたりして、お寺をきれいにしていました。
あるところに木が一本倒れていて、長老が若い人と一緒にどけようとして、二人で木を抱えました。
重いので、持っていて、ちょっと歩いて、「この辺りで捨てましょう」と、ドカンとそれを捨てたのです。

そのとき長老が、「捨てたら楽ですね」とひと言、言うのです。
重くて、持っているのがキツい木を、捨てたらラクになった、
レッゴー(Let go)ということなのですね。
「捨てたら楽ですね」という長老のひと言に、私はびっくりするのです。  弟子がどんな感じになったかわかりませんが、私にとっては、とんでもないびっくりです。

「捨てたら楽ですね」
というのは、とてもシンプルな言葉でしょう。
重い木をお運んで、ドーンと捨てた。
「あっ、楽」、ただそれだけ。

仏教の、悟りのポイントは、ただそれだけなのです。
長老方、指導者たちは、いつでも「捨てたら楽」だということを言っているのです。

アーチャン・チャー長老は、チャンスがあったら、いつでも真理を教えるのです。  そのための「捨てたら楽ですね」という言葉なのです。  いっさいを捨てるのです。
それだけ。
持ち運ぶとかなり苦しいのです。
それは真理です。

私がびっくりしたのは、何のことなく現実的に、目の前にあることで、お釈迦様がおっしゃっていたような譬えで長老が言うからです。  やっぱりすごい人だなあと思います。  誰にでも言える言葉ですが、精神的に優れた人の言葉は力の強さが違います。

私達も重い荷物を運んだりするでしょう。
きつくて、きつくて、きつくて、痛くて、それでも運ぶ。
何故かと言うと、その荷物に対して結構執着があるのです。
余りにも重くて、一寸置いておきます。

その瞬間で、楽に成りますが、また持ちますからね。
手に取る、そこで苦しみが出てきます。

ですから、
仏教は突き詰めれば「捨てる」ということに尽きるのです。

東日本大震災で被災された方々は、大変な苦難に遭っていらっしゃると思います。  そして、精神的に落ち着いていられる能力を確かめ、養うときでもあります。

「捨てる」「執着しないで楽になる」「放っておく」
という真理への理解を深め、冥想修行を通じて心の平安、本当の幸せを獲得できますよう、願っています。

2012年2月13日月曜日

捨。完璧な道

(CD: インドゥリア バーワナー(六根の冥想)
ヴィパッサナー冥想の極意)より

中部経典 インドゥリア バーワナー スッタ (第152 感官修習経)
Majjhimanikāya 5.10 Indriya bhāvanā sutta

454
Etaṃ santaṃ etaṃ paṇītaṃ yadidaṃ — upekkhā’ti.
これが、安穏である、これが、勝れている、それは、何でしょうか?
捨-Upekkhāである。

心地良さが生まれても、捨を実践すると、安穏な気持ちになる。
それが、冥想と言う事。

捨-Upekkhāとは、
・心の波を立てないで平安に保つ。
・心を冷静な状態で保つ。

花を見たら、パッと気持ちよくなる。
が、直ぐに、これは造られた物で、あまり品のある物ではない。
一瞬で、サッと、気持ちを捨に持っていく。

興奮しないで落ち着いて平安で居るぞ。
と言うのが、修行であり、冥想であります。

バラモンの様に、「見るな」では無い。
肉体には、見るな。とは、束縛は出来ない。
心地よくなったり、心地悪くなったり、どちらでも無かったりする。
それは、因縁に縁って生まれた、造られた、合成された物であり、品の良い物ではない。

自然に心の中に生まれる物は、品の良い物ではない。
しかし、平安の気持ちは、自然に生まれる物ではない、
自分の精進で造らなくてはならない。だから、品がある。

その瞬間で、自分が心の中で平安を造る。
平安を造ったら、心は自由である。

花を見ても、花にやられていない。
花に自分の心を操られていない。

花を見た瞬間は、心地よくなる。
それは、因果法則なので仕方がない。
しかし、次の瞬間で、その感情を消す。
これが、捨の実践。

見る度(六根)に、捨の訓練をする。
これが完璧な道である。
他に方法は、無い。

瞬間に生まれた、心地よさ、心地悪さ、普通の気持ちを消して、平安という気持ちが心に着く。

2012年2月12日日曜日

捨。Upekkhā

心を育てるキーワード集 →CATU-APPAMAÑÑā-CITTA: 慈悲 (四無量心)
http://www.j-theravada.net/pali/key-catu-appamanna-citta.html

----- 以下引用

upekkhā(ウペッカー) 捨
 差別のない広々した平等な心でいる優しさ

捨 upekkhā 「平等心」です。

Upa という接頭語には、
落ち着いて、包括的に」という意味があり、
それに ikkhati
見る、観察する」が合わさった動詞
upekkhati の名詞形がupekkhā で、
落ち着いて客観的に観察すること」というような意味になります。
一方的に偏らず、偏見がない心です。

その意味を見てもわかるように、
upekkhā と智慧はかなり近いのです。
upekkhā が育つ」と「智慧が育つ」は同義語と言っていいほどです。

智慧を育てるためには、
見たもの、聞いたものにとらわれず、固定概念を捨てることが必要です。
upekkhā の「捨」という訳を見ると、一見「?」と思うのですが、「取らない、執着しない」というところからきていると思えば理解できます。

世間で「人間は平等だ」と言う時は、「他の生命は平等ではない」という気持ちがあります。
「平等を壊す人間」を攻撃するのが「平和運動」なのです。
そういう「平等」はただのインチキです。

仏教の「平等」は、広大な概念です。
sattā (生命)とは、
宇宙全体の生命、多次元生命(神々・霊・餓鬼・鬼など)を含むのです。
upekkhā の人は、
主観的な自分主義が、消えた広い心で
「生命は、色んな形を取ってそれぞれ生きている。
でも皆、同じ生命だ。
私も、ただその一員にすぎない」
と、見るのです。

仏教には、
輪廻という概念があります。
我々は、無始なる過去から、死んでは生まれ、死んでは生まれ、無限とも言える時間を生きているのです。
その時間は、
何千億年、何兆年などという小さなものでは、ありません。
一つの宇宙が消滅する時間単位でさえ、あっという間なのです。
それほどの長い輪廻の中で、我々は皆、動物や虫や魚にも、天界や地獄にも、輪廻を繰り返してきました。
だから、
誰が偉くて、誰が偉くない、など、どうやって言えるのでしょうか。
たまたま
地位が高いなど、どうということはありません。
来世では、虫かもしれないのです。
そこを、理解すると、
平等ということは、当然のことになり、具体的に、厳密に、生命は平等だと見ることができるのです。

upekkhāを育てる慈悲の冥想の言葉は「悟りの光が現れますように」です。
この言葉を、自分、親しい人々、生きとし生けるもの、私が嫌いな人々、私を嫌っている人々に、次々と念じます。
これは、心の汚れを消し去り、心の小さいレベルを破って無量の大きさの広々した心の状態をつくる修行です。
それを理解して、リラックスしながらも真剣に念じてみてください。

upekkhā (平等心)と mettā (友情)はちょっと似ています。
しかし、
平等心は、友情よりも、すごく広いのです。
例えば、
ある乱暴者が騒いでいるとします。
 Mettā の慈しみがあると、
「うるさいなあ」と気楽に言えます。
乱暴者も優しい友人の言葉には怒りません。
 upekkhā の人は、
静かに、「皆それぞれ自分の生き方をしているのだから、まあいいじゃないか」という感じで、なんということもなく落ち着いています。
これは
無関心とは全く逆です。
無関心は無知で、落ち着きは智慧です。落ち着きはものごとを理解することによって生まれます。
誰に対しても
静かに落ち着いている人がいたならば、周りの人々もとても気持ちがいいのです。

2012年2月10日金曜日

捨。手放す

心に生ずるものは何であれ、手放す様にして下さい。
賞賛や見返りを期待してはいけません。

もし、少しだけ手放すのなら、
貴方は、少しだけ平安を得るでしょう。

もし、多くの物を手放すのなら、
貴方は、多くの平安を得るでしょう。

もし、あらゆる物を手放すのなら、
貴方は、完全な平安と自由を知るでしょう。

その時、
この世界に於ける貴方の戦いは、終わりを告げる事になるのです。

アーチャン・チャー長老
(書籍:手放す生き方 P104)

≪所感≫
手放すとは、捨てるという事だと思います。

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捨。解脱

お釈迦様の教えは、すべてを捨てたところ(解脱)で修了するのです。

アーチャン・チャー長老

出村佳子さんのHPより、抜粋
http://homepage3.nifty.com/sukha/Ajhancha_4nobletruth_.html

お釈迦様の最後の言葉

Vayadhammā saṃkhārā appamādena saṃpādethā

諸行(諸々の作られた物)は無常(真理:衰える滅びる性質)です。
アッパマーダ(>不放逸)を完成しなさい

vaya :   ① 衰退、滅亡、消滅、衰滅
          ② 年代(青年、壮年、老年などの)、青春
dhammā : ① 法、教法、教え、真理、正義、義務
         ② 法に従う、教えに従う
saṃkhārā: ① 行為、形成力、現象
appamādena :
Appamâdo : 不放逸、覚醒、意識がはっきりしている
√mad : 酔う、混乱、狂う
pa+mâda :  酔う状態、狂った状態
a(否定の意味)+(p)+ pamâda : 覚醒とか意識がはっきりしている
saṃpādethā : saṃpādeti : 得る、完遂する、完成させる、努める

2012年2月9日木曜日

捨。放っておく。悟りへのパスワード。

冥想のルールは、(1)実況中継、(2)スローモーション、(3)感覚を感じる
冥想とは、実況中継。実況中継が冥想。

足がしびれたり、カラダが痛くなったら、放っておく。
この放っておく事が、悟りへのパスワード。
傷みも無常である。事を観察出来る。

(初心者指導にて)

≪所感≫
放っておくとは、捨の実践と言う事。

主観的な思考、妄想、Papañca(捏造)を捨てて、集中して、ありのままの心と身体を観察して、真理(苦、無常、無我)を発見(智慧)する事。

観察とは、
物事の状態や、変化を、当事者では無く、第三者の立場から、客観的に、冷静に、注意深く、見て、調べる。事。

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いとも簡単に悟れる。
でも人は自分の希望願望を作って、それを追い求める。

結局、
人の話を聞かないんです。
仏教の世界で冥想している人は多いが、結果はない。

なぜか?
何があっても一切放っておきなさい、と言ってもそれができない。
悟りを「求めてる」から放っておけない。

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「見解とは全部実体論であり、無常論ではないので、見解が生まれっぱなしになるとその人はそれで満足し、誤解して堕落するのです。

一切の見解を捨てることが第一番目の悟りなのに、その反対方向に走ることになるのです」

(書籍:ブッダの実践心理学 縁起の分析)

2012年2月8日水曜日

起床時、就寝時の冥想

(書籍:自分につよくなる P177)

それから、もう一つ大切な日常的なヴィパッサナー冥想があります。

それは、
朝起きてすぐの時間と、夜寝る前の時間に、ヴィパッサナー冥想をするのです。
これは、とても効果的ですし、いろいろといいことがあります。

皆さんは何時間くらい寝ていますか。
ほんとうは8時間くらい寝たいのだけれども、いつも6時間くらいしか寝られませんという人が多いのではないでしょうか。  日本人の平均というのは、否世界中の人間はだいたいそのくらいの睡眠時間だとおもいます。
しかし、ヴィパッサナー冥想法を行うと、6時間どころかもっと少なくても8時間寝る以上に心身を十分休められるのです。

具体的にどのようにするか
といいますと、6時間寝るところを5時間だけ寝て、残りの一時間はヴィパッサナー冥想に使うのです。

たとえば、
夜の12時に寝て朝6時に起きている人は、5時に起きて下さい。  目覚ましでもかけて、朝5時になったら「さっと起きます」言葉に出してすっと起きて、足を組んで、目は開いても閉じても好きなようにして、姿勢を正しく、背筋は必ずまっすぐにして、
・心を体を整えます
・落ち着きます
・リラックスします
など、ご自分の言葉で言って下さい。
そして呼吸を整えてから「膨らみ・縮み、膨らみ・縮み、膨らみ・縮み」と、おなかの中の呼吸を観る冥想をして下さい。

そのときに、冥想だ。修行だ。などと力んではいけません。
あくまでも自然に、ちょっとリラックスをしようかなといとう軽い感じで冥想をすることが大切です。
そして、寒くなってきたら「寒くなってきた」とありのままに言葉で状態を捉え、眠くなってきたら「眠い、眠い」と、頭のなかで言いながら座ってみて下さい。

その一時間で、
三時間寝ても得られないような深い休息を得ることが、できるのです。
身体に休息が必要なように、心にも休息は必要です。

心に必要な休息は落ち着くことです。

寝ても、寝ても、どんなに睡眠を取っても疲れが取れない。  眠気が取れないというひとたちが多いのです。 目覚めたら、あくびをしたり身体をあっちこっち伸ばして疲れをとろうとしているでしょう。

ですから、朝はいつもより一時間早く
起きて、その一時間を心身を落ち着かせる時間、心を統一する時間にしてください。  一時間は長いとおもわれるのならば、最初は30分からはじめて下さい。

夜寝る前にも、同じように冥想
を行うことも、とてもいいのです。  ただ寝転んで寝るときは、なかなかすぐには熟睡できないのです。  すぐに熟睡できれば、一時間寝ても二時間寝ても、すばらしい休息がとれるのです。

ヴィパッサナー冥想をしてから寝れば、
さっと死んだような感じになって寝れるので、ほんとうによく疲れがとれます。  自分がいたかどうかということも全部忘れてしまって眠ってしまうような眠りが最高なのです。

どうするかといいますと、
眠りにつく前に、座って、呼吸を整えて、「膨らみ・縮み、膨らみ・縮み、膨らみ・縮み」と呼吸を観て、ほんとうにすごく眠くなるまで冥想をしてから

「これから寝ます」と、寝ればいいのです。

ヴィパッサナー冥想が身についた人は
いくら身体が疲れても、さっとサティをするだけで心身をすーっと休めることが出来ます。
まるでスイッチを入れると電気がパッとつくように、さっと心を、落ち着かせて疲れをとることができるのです。

ほんとうに身体が疲れ切ってへとへと
になっているときでも、どこかで座って少し冥想をすれば、すーっと疲れが引いていきます。
これはほんとうに不思議です。  まるで奇跡のようです。

ですから、奇跡などは
何もサイババの所などに行かなくても、自分で簡単に行えるのです。
サイババの所にいくと何か時計をつくってくれるそうですが、つまらないじゃないですか。
まあ大きなダイヤモンドでも作ってくれるならば飾って楽しむこともできるかも知れませんが、時計だけだそうです。

ですから、そんな所に行くよりも、
自分で奇跡を行うことのほうが、ずっと楽しいでしょう。
ぜひ試してみて下さい。

2012年2月7日火曜日

アースマラソン

芸人の間寛平(1949年高知県生まれ)が、挑戦した人類初のアースマラソン
2008年12月17日(59才)~2011年1月21日(61才)
ヨットとマラソンで地球を2年で一周(41,000km)する過酷なレース。

そのアースマラソンの公式ページに、応援に来た息子(慎太郎さん)と一緒に走った時の日記「親子の時間Ⅱ」が載っていたので引用致します。

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http://www.earth-marathon.com/2009/06/03/105252.html
(ニックネーム飄々は、私のコメント)

光代さんとは違うふれ合い。
近すぎず遠すぎず、ステキな距離感です。

寛平さん「慎太郎、1000km以上走ってRUNが分かったわ。
体の力を抜いて走らなあかんねん。
それまでは力が入っているから足が痛くなったり、
疲れが溜まったりしてもうたけどな。」

慎太郎君「どういう事?」
寛平さん「走ろう走ろう思ったら、疲れて足が持たへんねん。
だから軽く汗を流す程度、ジョギングすんねん。」

慎太郎君「軽くジョギングで60km?」
寛平さん「違うねん、軽くジョギングで5km!
それが、たまたま12回あるだけや!
そう考えたら力も入らへんし、毎日毎日続けられるんやで!」

慎太郎君「あっなんかそう思ったら、急に楽になったわ!」
寛平さん「マラソンとかはストイックになったらあかんねん。
力を抜いて風景や会話を楽しみながら、
右の足を出して、次は左の足を出す! それだけで前へ進むんや!
フォームとかは関係あらへんし、なんも難しくないで、たったそれだけや!」
慎太郎君「確かにそうやな!」

たったそれだけで、寛平さんはアメリカ大陸を3000km以上走って来ました。

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仏教に通じると、思った。
家族の程よい距離感や、捨と精進の教えが、ここにある。

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ゴールの手前で握手をして応援する、私が映っていた。
http://www.youtube.com/watch?v=OF8avZ30M-A 7:58
http://www.youtube.com/watch?v=Ci2Y8xrBbIk&feature=related 8:15

2012年2月6日月曜日

捨。人の言動は、放っておく

他人は、放っておきなさい
他人の欠点を探してはいけません。  もし、彼らが間違った行いをしたとしても、その事によって、貴方自身が苦しむ必要は無いのです。  もし、貴方が彼らにどの様にするのが正しいかを指摘して、彼らが、それに従って行動しなくても、放っておく事です。

アーチャン・チャー長老
(書籍:手放す生き方 P99)

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他の人のことは放っておくのです。

自分の心を観察するだけでも十分すぎるほど大変なことです。
なぜ他人を評価するというような重荷をさらに背負うのでしょうか。

自分の呼吸や毎日の生活を冥想の場として活用する事を学ぶのです。
そうすればあなたの智慧は確実に成長します。

アーチャン・チャー長老
(書籍:手放す生き方)

2012年2月5日日曜日

冥想の心の準備

「おまえさんは、まず自分の見解を捨て、心をからっぽにせにゃならん。
そうして初めて物事を観察できるようになるわけじゃ。
わしらの修行は、利口さと愚かさの双方を超越したものじゃ。」

 (アーチャン・チャー長老 手放す生き方)

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(書籍:サンガジャパンVol. 6「震災と祈り」:「落ち着き」だけが「自分のもの」になる)

お釈迦様も同じ言葉をずっとおっしゃっています。
「私のものでないものは捨てなさいよ」と説かれます。

「これが私ですか」「これが私ですか」と、問いかけるやり方で修行する方法もあります。
感覚、身体、気持ち、あるいは大事なものなどを、「私だろうか」と。
そして「私でないのだから捨てます」と放っておけるようにするのです。

「捨てる」「放っておく」「気にしないことにする」
という能力が身につくと、かなり速いスピードで成長して、悟りに達します。

対して、「知りたい」「悟りたい」などと、「○○したい」が入ると終わり。
そこは一般人が引っ掛かってしまうところです。
「そんなこと言っても、『やりたい、したい』という気持ちがなければできないでしょう。」と考えてしまうのです。

そこは、
一人一人がなんとか解決しなくてはいけないポイントなのです。
目標をつくって頑張るのは、世の中で一般的なやり方です。
「これができるようになるまで頑張るぞ!」などとよく言いますね。

仏教がポイントとする姿勢というのは、捨てて意欲だけ持つ、ということです。

やることはやるのですが、「やりたい、やりたい」ではないのです。  「何のため」とか、「このほうがこんなにいいことがあるから」という目的や理由はなく、「やる」という意欲だけ必要だということです。

ですから、
強力な意欲が必要です。  「やり抜く」という負けず嫌いが必要です。

しかし、
「やりたい、やりたい」というのはダメです。
「やりたい、やりたい」というのは、自我が絡んでいます。
自分という錯覚があって、やりたくなります。
それでは、いくら冥想をしても、何年やっても悟りには達しません。

冥想にはほかならず結果があります。
冥想を続けたければ、落ち着いてはいきます。
長いあいだ、清らかな心ではいられます。

しかし、
「自分」という気持ちが入っている限りは、悟りという結果にはならないのです。

2012年2月4日土曜日

無我とは

生きる、ということは、
感覚を変化させることです。
感覚には苦も楽も不苦不楽もあるし、一つの感覚だけ続くことはあり得ない。

感覚は、因縁によって現れたり、消えたりするのです。

愚か者は、
「感覚が我であり、我が魂であり、永遠である」と誤解して執着して、輪廻転生して苦しむが、

理性のある人は、
感覚に対する執着を一切捨てて、解脱に達するのです。

これが釈尊の説かれた「無我」の話です。

(HP:魂は巨大妄想の産物である)
http://www.j-theravada.net/howa/howa163.html

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お釈迦様の教えには「無我」(実体はない)の冥想があります。
どんな人も「私」に執着していますから、この教えを聞いたほうがよいでしょう。
「私」に執着することから苦しみが生じます。
それゆえ、この「無我」ということを、よく観察すべきなのです。

中略

「これは私ではない」 「私のものではない」 と観察することほど、苦しみを乗り越えるのに良い手段はありません、とお釈迦様は教えられました。

無我の観察が、苦しみを乗り越える最高の手段なのです。
しかし、私たちはたいてい「無我」ということに注意を払っていません。
苦しみが生じたとき、そこから何も学ばずに、ただ嘆いているだけです。

なぜ、そうなのでしょうか?
私たちはこのことを深く観察し、一切知者であるお釈迦様にたいする敬意を育てるべきでしょう。

中略

真理はどこにあるのでしょうか?
真理は、私たちの身体と心にあります。

身体と心を観察することが、冥想の本質なのです。

身体と心を観察するとき、智慧が現われるでしょう。
智慧があれば、何を見ても真理が見えます。
常に無常(anicca)・苦(dukkha)・無我(anatta) が見えるのです。
Anicca は無常ということです。
Dukkha は苦のことで、ものごとは無常であるのに、その無常なるものに執着すると、苦が生じます。
なぜならものごとはanatta ――「私」のものではありませんし、「私」ではないからです。

しかし、私たちはこの無常・苦・無我を見ていませんし、いつでも「私」とか「私のもの」と見ているのです。

中略

そういう訳で、お釈迦様は「これは私ではない。
私のものではない、と観察することほどレベルの高い実践はない」と、おっしゃったのです。

あるのはただ一時的に現れている現象のみです。
もしこのすべてを明晰に理解するなら、心は穏やかになるでしょう。

今の瞬間に「無常」ということと、「ものごとは私ではない、私のものではない」ということに気づくなら、私や私のものと思っているものがなくなっても、落ち着いていられるでしょう。

なぜなら、もともとそれらは私のものではありませんし、誰のものでもないからです。
単なる地水火風の要素にすぎないのです。

(アーチャン・チャー長老:法話:四つの聖なる真理
出村佳子さんのHPより、一部抜粋)
http://homepage3.nifty.com/sukha/Ajhancha_4nobletruth_.html

悟れない

修行で、なかなか悟りに達しないという事は、無明を正当化している。

(法話:パパンチャを破る-禅の物語(無門関)にちなんで) より

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(「震災と祈り」サンガジャパンVol. 6 「落ち着き」だけが「自分のもの」になる)

≪抜粋≫
・「知りたい」「悟りたい」などと、「○○○○したい」が入ると終わり。

・やることはやるのですが、「やりたい、やりたい」ではないのです。  「何のため」とか、「このほうがこんなにいいことがあるから」という目的や理由はなく、「やる」という意欲だけ必要だということです。

・ですから、強力な意欲が必要です。  「やり抜く」という負けず嫌いが必要です。

≪以下 原文≫

■「したい」と、言う気持ちを捨てる。

アーチャン・チャーという有名なお坊さんがいます。

田舎のお坊さんで、外国語は何もわからず、しかも森の中で生活していたのですが、世界中で有名なのです。

高名な弟子たちもたくさんいます。  立派なお坊さんですが、説法するときはあまり難しい仏教用語などは何も言わず、そこらへんにいる犬猫の話やら、牛の話やらばかりします。
しかし、すごいパワーがあります。

そのお坊さんが、ずっと言っている一つの言葉があるのです。
私は英語でしか読んでいませんが、「let go(手放す)」、いわゆる「放っておけ」という言葉です。
その言葉を中心に据えて、ずっと教えていました。  その教えの結果として、かなりの人々が仏教を経験していきました。

お釈迦様も同じ言葉をずっとおっしゃっています。
「私のものでないものは捨てなさいよ」と説かれます。

「これが私ですか」「これが私ですか」と、問いかけるやり方で修行する方法もあります。
感覚、身体、気持ち、あるいは大事なものなどを、「私だろうか」と。
そして「私でないのだから捨てます」と放っておけるようにするのです。

「捨てる」「放っておく」「気にしないことにする」
という能力が身につくと、かなり速いスピードで成長して、悟りに達します。

対して、「知りたい」「悟りたい」などと、「○○○○したい」が入ると終わり。  そこは一般人が引っ掛かってしまうところです。  「そんなこと言っても、『やりたい、したい』という気持ちがなければできないでしょう。」と考えてしまうのです。

そこは、一人一人がなんとか解決しなくてはいけないポイントなのです。

■自分とは何かを調べ、捨てていく
目標をつくって頑張るのは、世の中で一般的なやり方です。  「これができるようになるまで頑張るぞ!」などとよく言いますね。

仏教がポイントとする姿勢というのは、捨てて意欲だけ持つ、ということです

やることはやるのですが、「やりたい、やりたい」ではないのです。  「何のため」とか、「このほうがこんなにいいことがあるから」という目的や理由はなく、「やる」という意欲だけ必要だということです。

ですから、
強力な意欲が必要です。  「やり抜く」という負けず嫌いが必要です。

しかし、「やりたい、やりたい」というのはダメです。  「やりたい、やりたい」というのは、自我が絡んでいます。
自分という錯覚があって、やりたくなります。  それでは、いくら冥想をしても、何年やっても悟りには達しません。

冥想にはほかならず結果がありますから
冥想を続けたければ、落ち着いてはいきます。  長いあいだ、清らかな心ではいられます。

しかし、「自分」という気持ちが入っている限りは、悟りという結果にはならないのです。

「自分」という気持ちを、はじめから捨てることができない人々は、「自分」とは何かと調べてみるのです。
「これが『自分』ですか」「これが『自分』ですか」と。  そして、そうでないものは、引っ掛からないで捨てることにするのです。

たとえば、冥想をすると、最初は痛みが出ます。
次に「自分」が現れてくるのです。  「この痛みだけ、なんとかならないか」などと思います。  それは、痛みに引っ掛かって執着しているのです。

このとき、「痛みとは『私』でしょうか」と調べてみるのです。
そして、「『自分』ではないでしょう。では放っておきましょう」というふうになれれば、冥想は成功します。
あるいは、このとき逆に、「なるほど『私』『私』とは、痛みがあるから生まれたものだ。ああ、『私』というものは
あるわけがないのだ」とわかると、そこで悟りの段階をひとつ進むことができます。

冥想が成功しない人々は、
だいたい、私のこの話を聞いて、「私とはこういうものだ」ですとか、私が言ったことをただ繰り返して言うのです。
人の言ったことをそのまま持ってくるようなインチキやごまかしをするわけですから、「あ、この人は悟らないだろう」と思います。

受け売りではなくて、もし自分でわかったら、これはすごい力です。
わざわざ私に報告しなくても、わかります。

■比較して言う「無常」は、真の無常では無い。
無常を知っている事で悟りに達する、と言うのは当たり前です。
ここで言う無常とは、
究極的な無常です。
一般に言われる無常は、何か無常で無い物に比較して感じる無常であって、それは究極的な無常ではありません。

中略

春に咲く桜にも、「ああ、花は散って無常だなあ」と言ったりするとでしょう。
その場合は、
桜の花が無常で、桜の木は無常でない訳です。
一年の内に精々一週間位しか花盛りが無い「花」の方を無常だと言うのです。
どうしても何か、無常で無い物に比較しています。
しかし、
究極的には、無常でない物は、存在するもしないのです。

中略

■修行は、「私」が無い世界
悟りが早いか遅いかは、その人の固定概念がどんな程度かというところで差がでます。
固定概念があると成り立たないのです。

その固定概念の中でも大きなものが、「私」です。

修行は、最初から「私」がない世界です。
語るのは、修行者が、「今のこのような現象をこのように見ているのだ」と、現状を説明するだけの世界です。

中略

冥想では、指導者はやり方を教えるだけで、余り助けてあげるところはありません。
そして、やってみれば、悟りに達します。
そんなにややこしい事でも、依存する世界でも無いのです。

中略

指導者が悟らせるなどと言う事はあり得ないのです。
ですから、タイのアーチャン・チャー長老も「let go、let go、let go、let go」と言うだけで、解った人がブッダの教えを経験する。と言う事なのです。

■仏教の真理は、ひと言で言えば「捨てる」

私が覚えているアーチャン・チャー長老のエピソードをひとつだけご紹介します。
長老のお寺は、森のお寺でした。  あるとき、ひどい風雨で木なども倒れて無茶苦茶になって、それをみんなで掃除していたときのことです。  修行に来ている人々みんなで、木を切ったり捨てたり、いろいろ考えたりして、お寺をきれいにしていました。
あるところに木が一本倒れていて、長老が若い人と一緒にどけようとして、二人で木を抱えました。
重いので、持っていて、ちょっと歩いて、「この辺りで捨てましょう」と、ドカンとそれを捨てたのです。

そのとき長老が、「捨てたら楽ですね」とひと言、言うのです。
重くて、持っているのがキツい木を、捨てたらラクになった、
レッゴー(Let go)ということなのですね。
「捨てたら楽ですね」という長老のひと言に、私はびっくりするのです。  弟子がどんな感じになったかわかりませんが、私にとっては、とんでもないびっくりです。

「捨てたら楽ですね」
というのは、とてもシンプルな言葉でしょう。
重い木をお運んで、ドーンと捨てた。
「あっ、楽」、ただそれだけ。

仏教の、悟りのポイントは、ただそれだけなのです。
長老方、指導者たちは、いつでも「捨てたら楽」だということを言っているのです。

アーチャン・チャー長老は、チャンスがあったら、いつでも真理を教えるのです。  そのための「捨てたら楽ですね」という言葉なのです。  いっさいを捨てるのです。
それだけ。
持ち運ぶとかなり苦しいのです。
それは真理です。

私がびっくりしたのは、何のことなく現実的に、目の前にあることで、お釈迦様がおっしゃっていたような譬えで長老が言うからです。  やっぱりすごい人だなあと思います。  誰にでも言える言葉ですが、精神的に優れた人の言葉は力の強さが違います。

私達も重い荷物を運んだりするでしょう。
きつくて、きつくて、きつくて、痛くて、それでも運ぶ。
何故かと言うと、その荷物に対して結構執着があるのです。
余りにも重くて、一寸置いておきます。

その瞬間で、楽に成りますが、また持ちますからね。
手に取る、そこで苦しみが出てきます。

ですから、
仏教は突き詰めれば「捨てる」ということに尽きるのです。

東日本大震災で被災された方々は、大変な苦難に遭っていらっしゃると思います。  そして、精神的に落ち着いていられる能力を確かめ、養うときでもあります。

「捨てる」「執着しないで楽になる」「放っておく」
という真理への理解を深め、冥想修行を通じて心の平安、本当の幸せを獲得できますよう、願っています。

無明を捨てる

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無明を捨て去る方法
無明を捨て去る方法は、苦の滅尽に至る道である八正道。
(長老の語録より、文献名調査中)


 → 無明を捨てる方法は、後日のブログで作成。

冥想とは

冥想とは、観察して、智慧が現れる事。

(法話:なぜ中道・四諦・八正道だったのか?)
http://gotami.j-theravada.net/2010/02/dhammacast-95.html

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アーチャン・チャー長老
(書籍: 手放す生き方 P26)

真の八正道。 冥想実践
http://appamado-amatapadam.blogspot.com/2012/02/blog-post_823.html

貴方が冥想をする時は、
あるがままにいて下さい。
貴方が歩く時も、あるがままにいて下さい。
何にも執着せず、何にも抵抗しないで下さい。

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(初心者指導にて)

冥想のルールは、(1)実況中継、(2)スローモーション、(3)感覚を感じる

冥想とは、実況中継。実況中継が冥想。

足がしびれたり、カラダが痛くなったら、放っておく。
この放っておく事が、悟りへのパスワード。
傷みも無常である。事を観察出来る。

≪所感≫
放っておくとは、
自分の心と身体を観察する事。

観察とは、
物事の状態や、変化を、当事者では無く、第三者の立場から、客観的に、冷静に、注意深く、見て、調べる。事。

即ち、
主観的な思考や妄想をしない。と言う事。
冥想に集中する。と言う事。
それは、主観、感情、妄想、捏造をてて、心と身体をありのままに見る。と言う事。

捨の実践と言う事。

主観的な思考、妄想、Papañca(捏造)をてて、集中して、ありのままの心と身体を観察して、真理(苦、無常、無我)を発見(智慧)する事。

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(書籍:サンガジャパンVol. 6「震災と祈り」
「落ち着き」だけが「自分のもの」になる P170-176)

≪抜粋≫

「知りたい」「悟りたい」などと、「○○○○したい」が入ると終わり。

・やることはやるのですが、「やりたい、やりたい」ではないのです。  「何のため」とか、「このほうがこんなにいいことがあるから」という目的や理由はなく、「やる」という意欲だけ必要だということです。

・ですから、強力な意欲が必要です。  「やり抜く」という負けず嫌いが必要です。

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(CD: インドゥリア バーワナー(六根の冥想)
ヴィパッサナー冥想の極意)より

心地良さが生まれても、を実践すると、安穏な気持ちになる。
それが、冥想と言う事。

興奮しないで落ち着いて平安で居るぞ。
と言うのが、修行であり、冥想であります。

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アーチャン・チャー長老 法話:四つの聖なる真理
出村佳子さんのHPより
http://homepage3.nifty.com/sukha/Ajhancha_4nobletruth_.html

お釈迦様の教えには「無我」(実体はない)の冥想があります。
どんな人も「私」に執着していますから、この教えを聞いたほうがよいでしょう。
「私」に執着することから苦しみが生じます。
それゆえ、この「無我」ということを、よく観察すべきなのです。

中略

「これは私ではない」 「私のものではない」 と観察することほど、苦しみを乗り越えるのに良い手段はありません、とお釈迦様は教えられました。
無我の観察が、苦しみを乗り越える最高の手段なのです。

しかし、私たちはたいてい「無我」ということに注意を払っていません。
苦しみが生じたとき、そこから何も学ばずに、ただ嘆いているだけです。

なぜ、そうなのでしょうか?
私たちはこのことを深く観察し、一切知者であるお釈迦様にたいする敬意を育てるべきでしょう。

中略

真理はどこにあるのでしょうか?
真理は、私たちの身体と心にあります。
身体と心を観察することが、冥想の本質なのです。

身体と心を観察するとき、智慧が現われるでしょう。
智慧があれば、何を見ても真理が見えます。
常に無常(anicca)・苦(dukkha)・無我(anatta) が見えるのです。
Anicca は無常ということです。
Dukkha は苦のことで、ものごとは無常であるのに、その無常なるものに執着すると、苦が生じます。
なぜならものごとはanatta ――「私」のものではありませんし、「私」ではないからです。

しかし、私たちはこの無常・苦・無我を見ていませんし、いつでも「私」とか「私のもの」と見ているのです。

中略

そういう訳で、お釈迦様は「これは私ではない。
私のものではない、と観察することほどレベルの高い実践はない」と、おっしゃったのです。

あるのはただ一時的に現れている現象のみです。
もしこのすべてを明晰に理解するなら、心は穏やかになるでしょう。

今の瞬間に「無常」ということと、「ものごとは私ではない、私のものではない」ということに気づくなら、私や私のものと思っているものがなくなっても、落ち着いていられるでしょう。

なぜなら、もともとそれらは私のものではありませんし、誰のものでもないからです。
単なる地水火風の要素にすぎないのです。

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(法話:パパンチャを破る-禅の物語(無門関)にちなんで) より

修行で、なかなか悟りに達しないという事は、無明を正当化している。

2012年2月3日金曜日

四聖諦-(01)

アーチャン・チャー長老 (法話:4つの聖なる真理)
出村佳子さんのHPより抜粋。
http://homepage3.nifty.com/sukha/Ajhancha_4nobletruth_.html

この法話は1977年にイギリスのカンブリア、マンジュシュリー協会でおこなった法話です。

中略

さて、私は長年、お釈迦様の教えを説いてきましたが、私も私なりにいろいろ苦労してきました。現在、私のお寺パーポン寺(Wat Nong Ba Pong)の別院が四十ほどありますが、冥想を学びに来る人たちのなかには教えるのがむずかしい人たちがいます。知識があっても実践しない人もいれば、知識もなければ真理を見出そうとしない人もいます。そういう人たちにたいして私はどうすればよいのかわかりません。どうして人の心はこうなのでしょうか? 無智でいることは決してよいことではありませんし、無智はよくないと話しても、彼らはいっこうに耳を傾けません。これ以上、私に何ができるでしょうか。

人は冥想実践に関して「疑い」でいっぱいですし、いつも疑いを持っています。みんな涅槃(nibbāna)に達したがっているようですが、涅槃への道を自分で歩きたがらないのです。これではどうにもなりません。私が冥想してくださいと言うと、いやがってやらないか、いやがらなければ冥想中 すっかり居眠りしています。多くの人が、私が教えないことをやりたがるのです。ご住職様にお会いしたとき「こちらの修行者はどうですか?」とお聞きしたところ、ご住職様は「同じです」と答えました。これは、指導者であることの痛みでしょう。

今日は、「今の瞬間に問題を解決する方法」ということについてお話いたしましょう。

皆さんのなかには、「やるべき仕事がたくさんありすぎてお釈迦様の教えを実践する暇がない。どうすればいいのでしょうか」と質問する方が結構います。
私はこう答えます。「あなたは仕事をしているとき呼吸をしないんですか?」と。彼らは「もちろんしています」と言います。私は「でも、そんなに忙しいなら呼吸をする暇なんかないでしょう」と言うと、彼らは黙ってしまいます。仕事をしていても、ただ「気づき」(sati)さえあれば、お釈迦様の教えを十分に実践する時間があるのです。

冥想実践とは、呼吸のようなものです。
だれでも仕事をしているあいだ呼吸をしていますし、寝ているあいだも呼吸をしています。座っているときも呼吸をしています。では、なぜ呼吸をする時間があるのでしょうか?
それは、私たちが呼吸が大事なものであることを理解しているからです。だから、いつも呼吸をする時間を見つけることができるのです。
同様に、冥想実践が大事なものであることを理解するなら、実践する時間を見出すことができるでしょう。

皆さんは苦しみを味わったことがあるでしょうか?
楽を味わったことがあるでしょうか?
まさにここが真理であり、皆さんが観察しなければならないところです。
楽を感じているのは誰でしょうか?
楽を感じているのは、心です。
苦しみを感じているのは誰でしょうか?
苦しみを感じているのは、心です。
そしてこの苦や楽の現象は、生まれたところで消えるのです。
苦や楽……これが私たちの問題なのです。

そこで、「苦」と「苦の原因」と「苦の消滅」と「苦をなくす道」を理解するなら、私たちは問題を解決できるでしょう。

苦には二種類あります。

「普通の苦」と「特殊な苦」です。
普通の苦とは、ものごとの固有の性質である苦のことで、立っていることは苦であるとか、座っていることは苦であるとか、横になっていることは苦であるなどの苦のことです。条件づけられて成り立っているすべての現象に本来そなわっている苦のことです。お釈迦様にもこの苦がありました。また、楽や痛みもありました。しかし、お釈迦様はそうしたものは自然の現象であることを悟っていました。お釈迦様は苦や楽の本質を理解し、痛みや楽などの自然な感覚、いわゆる普通の苦を乗り越える方法を理解されていました。この自然の苦を理解していたので、苦に打ち負かされることはなかったのです。

重要なのは、二つ目の苦です。
この苦は「特殊な苦」で、「普通の苦」以外の苦のことです。
病気になったとき、私たちは医者に注射してもらうことがあるでしょう。注射針が皮膚に刺さったとき、いくらか痛みを感じます。これはごく自然なことです。そして注射針を抜いたとき、その痛みは消えるでしょう。これは「普通の苦」のたぐいで、別に問題はありませんし、だれでもそのように感じるものです。

他方「特殊な苦」は、ものごとにたいする執着(Upādāna)から生まれる苦です。
これは毒の入った注射器で注射をするようなもので、もはや普通の自然な痛みではなく、死ぬほどの痛みです。この苦は貪欲から生まれる苦と似ています。

邪見(間違った見方)、いわゆる条件づけられて成り立っているあらゆる現象の本質は無常である、ということを知らないことは、もう一つの苦です。あらゆる現象は、輪廻(samsāra)の領域にあります。(輪廻とは、無明の世界のことです)。何かにたいして「それが変わってほしくない」と考えるなら、苦しむでしょう。「身体は私だ」とか「身体は私のものだ」と考えるなら、身体が病気になったり老いたりしたとき、恐くなるでしょう。

呼吸を見てください。
息が入ると出なければなりません。出たら入らなければなりません。これが呼吸の本質であり、出たり入ったり変化することよって、私たちは生きているのです。ものごとはそのように変化して機能しています。しかし、私たちはそれに気づいていません。

たとえば、何かを失くしたとしましょう。それにたいして「あれは私のものだ」ときつく考えているなら、悩みが生じるでしょう。「失くしたものは現象であり、自然の法則に基づいているものだ」と見なければ、苦しみが生じるのです。

息を吸ったり吐いたりしなければ、生きることはできません。どんな現象も、本質的に変化しています。この変化すること、いわゆる無常(aniccam)ということが真理なのです。私たちは無常の中で生きています。ものごとの本質をありのままに理解したとき、苦を乗り越えることができるでしょう。

ものごとの本質(真理)を観察するということは、ものごとのあり方にたいする理解力を育てるということであり、ものごとのあり方を理解すれば、苦しみは生じないのです。もし間違って理解するなら、世の中に抗うことになりますし、法や真理にも抗うことになるでしょう。

たとえば、病気になって入院しなければならなくなったとき、ほとんどの人は「治りたい、死にたくない」と考えるでしょう。これは間違った考え方で、苦しみをもたらします。

そうではなく、こう考えるべきです。
「治るときは治るし、死ぬときは死ぬ」と。これが正しい考え方です。なぜなら、人は状況を完全にコントロールすることができないのだから。このように正しく考えるなら、治るか死ぬかに関係なく、間違った道には行きませんし、悩むこともないでしょう。「なんとしてでも治りたい」とか「絶対死にたくない」と考えるのは、ものごとを理解していないということなのです。

「病気が治るなら、それはそれでいい。治らないなら、それはそれでいい」と考えるようにしてください。そうすれば、間違った道には行かないでしょうし、恐れたり泣いたりすることもないでしょう。ものごとをあるがままに見ているのだから。

お釈迦様は明晰に見ました。
お釈迦様の教えはいつでも真理であり、けっして時代遅れになりません。このことはけっして変わりません。現代においてもお釈迦様の教えは真理であり、まったく変わっていないのです。
お釈迦様の教えを深く心に留めておくことによって、私たちはやすらぎと幸福が得られるでしょう。

お釈迦様の教えには「無我」(実体はない)の冥想があります。
どんな人も「私」に執着していますから、この教えを聞いたほうがよいでしょう。「私」に執着することから苦しみが生じます。それゆえ、この「無我」ということを、よく観察すべきなのです。

今日、ある女性が 「怒りにどう対処したらいいでしょうか?」 と私に質問しました。
私はこのように答えました。「今度あなたが怒ったとき、目覚まし時計のスイッチを入れて、あなたの前に置いてください。そして二時間たったら、怒るのをやめてください」と。

怒りが本当にあなたのモノなら、怒りに向かって「二時間で消えなさい!」と言えば、怒りは消えるでしょう。しかし、怒りはあなたのモノではありませんし、そのように命令しても無駄なのです。二時間たってもおさまらないときもあるでしょうし、一時間でおさまるときもあるでしょう。

怒りを自分のモノとして固執することは、苦しみを引き起こします。怒りが本当にあなたのモノなら、怒りはあなたの言うことをきくでしょう。言うことをきかないなら、それは単なる一時的な現象にすぎないということです。それに引っかからないでください。嬉しくても悲しくても、それに引っかからないように。好きなことにも嫌いなことにも引っかからないように。どれもすべて現象なのだから。

皆さんは怒ったことがあるでしょうか?
怒ったとき、どんな感じですか?
いい気持ちですか、いやな気持ちですか?
いやな気持ちなら、怒りを捨てたらどうでしょうか。
なぜずっと持ち続けるのでしょうか?
そんなものにしがみついているのに、どうしてあなたは賢者だとか知識人だと言えるでしょうか。
生まれてから、心は何度怒ったでしょうか?
怒りは家族げんかを引き起こすこともありますし、一晩中泣かせることもあるでしょう。
それでも私たちは怒り続け、怒りにしがみつき、苦しんでいます。

怒りは苦しみだと気づかないかぎり、いつまでも苦しむでしょうし、怒りがおさまる見込みもないでしょう。

輪廻転生の世界はこのようなものです。
このことをあるがままに理解するなら、問題は解決できるでしょう。

「これは私ではない」 「私のものではない」 と観察することほど、苦しみを乗り越えるのに良い手段はありません、とお釈迦様は教えられました。無我の観察が、苦しみを乗り越える最高の手段なのです。しかし、私たちはたいてい「無我」ということに注意を払っていません。苦しみが生じたとき、そこから何も学ばずに、ただ嘆いているだけです。なぜ、そうなのでしょうか? 私たちはこのことを深く観察し、一切知者であるお釈迦様にたいする敬意を育てるべきでしょう。

皆さんの中には、これがお釈迦様の教えであるということがわからない方もいらっしゃるかもしれません。よく注意してください。私は経典に書いてあることをそのまま話しているのではなく、言葉を変えて話しています。多くの方は経典を読んでいますが、真理は理解していません。今日は、経典の外側の教えをお話いたします。しかし、ここにいる皆さんが全員いっせいに理解できるわけではありません。要点を聞きのがしたり、理解できなかったりする方もいらっしゃるでしょう。

たとえば二人がいっしょに歩いていて、アヒルとニワトリを見るとします。一人は、「なぜニワトリはアヒルじゃないの? なぜアヒルはニワトリじゃないの? 」と言います。その人は、ニワトリがアヒルであってほしい、アヒルがニワトリであってほしい、と思っているのです。でも、そんなことは不可能です。もしその人が、ニワトリがアヒルであってほしい、アヒルがニワトリであってほしい、と思い続けたとしても、そうなることは絶対ありません。なぜなら、ニワトリはニワトリであって、アヒルはアヒルだからです。このように見ないかぎり、その人は苦しみ続けるでしょう。

もう一人は、ニワトリはニワトリ、アヒルはアヒルと見るかもしれません。しかし、それも別にどうということはありません。正しく見ていますから、問題は起こらないのです。
でも、アヒルがニワトリであってほしい、ニワトリがアヒルであってほしいと見るなら、苦しみ続けるでしょう。

これと同様に、「無常の法則」とは、一切のものごとは無常であるということです。このように見る人は、心にやすらぎがあり、なんの対立も生じません。しかし、ものごとが永遠であってほしいと望む人は、苦しむでしょう。無常が現れるたびに、失望することになりますし、心に対立が生じます。不安で夜眠れないこともあるでしょう。この「ものごとが永遠であってほしい」と考えることが「無明」(無常を知らないこと)であり、この「無明」をお釈迦様が発見され、教えられたのです。

真理を知りたいとき、どこを見ればいいのでしょうか?
身体と心を見るのです。
本棚の本を見るのではありません。真理を本当に見たければ、自分自身の身体と心を見つめなければならないのです。身体と心、この二つだけです。心は肉眼で見えませんから、「心の眼」で見なければなりません。真理を悟るには、まずどこを見るべきかということを知る必要があるのです。

身体の真理を知るには、身体を見なければなりません。
では、どうやって身体を観察するのでしょうか? 心で観察するのです。身体と心以外どこを見ても真理は見えないでしょう。なぜなら幸せも苦しみもまさに身体と心で生じるのだから。幸せが木から生じたのを見たことがあるでしょうか? 川から生じたり、天気から生じたりしたのを見たことがあるでしょうか? 幸せも苦しみも、自分自身の身体と心から生じる感覚なのです。

したがって、お釈迦様は、自分の身体と心を理解するようにと教えられました。真理は自分自身の身体と心にあり、まさにここを観察しなければなりません。皆さんの先生は本を読みなさいと言うかもしれません。本の中に真理があると思うなら、真理は決して理解できないでしょう。本を読むときは、本の内容を自分の心で観察しなければなりません。そうすれば、真理が理解できるでしょう。

真理はどこにあるのでしょうか?
真理は、私たちの身体と心にあります。

身体と心を観察することが、冥想の本質なのです。

身体と心を観察するとき、智慧が現われるでしょう。智慧があれば、何を見ても真理が見えます。常に無常(anicca)・苦(dukkha)・無我(anatta) が見えるのです。Anicca は無常ということです。Dukkha は苦のことで、ものごとは無常であるのに、その無常なるものに執着すると、苦が生じます。なぜならものごとはanatta ――「私」のものではありませんし、「私」ではないからです。

しかし、私たちはこの無常・苦・無我を見ていませんし、いつでも「私」とか「私のもの」と見ているのです。

それから、一時的に社会で決められたこと(世俗諦)も見ていません。世俗諦を理解すべきです。たとえば、こちらにいらっしゃる皆さんには名前があります。その名前は、皆さんが生まれたとき持ってきたものでしょうか? あとで付けられたものでしょうか?
わかりますか?
名前は、世俗諦です。
世俗諦は役に立つでしょうか?
もちろん役に立ちます。たとえば、Aさん、Bさん、Cさん、Dさんの四人の男性がいるとしましょう。お互いにコミュニケーションをとり、いっしょに生活するためには、便宜上、それぞれみんなに自分の名前がなければなりません。Aさんに話したいときは、「Aさん」と呼び、そうすればAさんが来るでしょう。Aさん以外の人は来ないのです。これは世俗諦の便利なところです。
しかし、このことをさらに深く観察するなら、そこには「誰もいない」ということがわかるでしょう。いわゆる世俗諦を超えたところが理解できるのです。あるのは、ただ地水火風の四大元素のみ。身体にあるのは、これだけなのです。

でも、私たちは「私」にたいして強く執着しているため(attavaadupaadaana)、身体を地水火風と見ることができません。もし明晰に見るなら、「私という実体はない」ということがわかるでしょう。
硬さの部分が「地」の要素であり、液体の部分が「水」の要素、熱の部分が「火」の要素、動く部分が「風」の要素です。このように分析して見るなら、あるのは地水火風だけだということが理解できるでしょう。どこに人(私)という実体があるでしょうか? そんなものはないのです。

そういうわけでお釈迦様は、
「これは私ではない。私のものではない、と観察することほどレベルの高い実践はない」とおっしゃったのです。あるのはただ一時的に現れている現象のみです。もしこのすべてを明晰に理解するなら、心は穏やかになるでしょう。今の瞬間に「無常」ということと、「ものごとは私ではない、私のものではない」ということに気づくなら、私や私のものと思っているものがなくなっても、落ち着いていられるでしょう。なぜなら、もともとそれらは私のものではありませんし、誰のものでもないからです。単なる地水火風の要素にすぎないのです。

このことを見るのは難しいことですが、たとえ難しくても私たちにできないことを言っているわけではありません。このことを見ることができれば、心は穏やかになり、怒ることも貪ることも愚かさも少なくなるでしょう。心には常に真理があるのです。嫉妬したり恨んだりすることもなくなります。なぜなら、どんな人も単に地水火風だけなのだから。これら以外のものはほかにありません。この真理を受け入れたとき、「お釈迦様の教えは真理である」ということが理解できる
でしょう。

「お釈迦様の教えが真理である」ということが理解できたなら、それほど多くの先生のところへ行く必要はないでしょう! 毎日毎日先生の話を聞く必要もないでしょう。真理を理解したなら、そのときはただ自分に必要なことをするだけです。

お釈迦様の教えを人々に教えるのは難しい。なぜかといいますと、人々は教えを受け入れず、教えや指導者と論争するからです。あるいは、指導者の前ではいい格好をするのですが、指導者のいないところでは泥棒するのです! 
人々に教えるのは本当に難しい。タイの人たちも同じです――だから、多くの指導者を必要としているのです。

気づいてください。
気づかなければ、真理は見えないでしょう。注意深く教えを聞き、考察してください。この花はきれいでしょうか? この花に醜さは見えるでしょうか? 何日くらい、きれいに咲いているでしょうか? これからどうなるでしょうか? なぜ枯れるのでしょうか? 三、四日後には捨てることになるでしょう。そうではないでしょうか。花の美しさはすっかり消えてしまうのです。

人はきれいなものや美しいものに執着しています。もし何かがきれいだと思うなら、そう見る人が対象にすっかり引っかかっているということです。お釈迦様はこのようにおっしゃいました。「きれいなものはただきれいなものとして見、それに執着すべきではありません。楽しいと感じるなら、ただ楽しいと見て、それに引っかかるべきではありません」

きれいということは確かではありませんし、美しいということも確かではありません。確かなものは、ありません。この世の中に確かなものなどないのです。これが真理です。真理以外のものは、美しさのように変化していきます。真理はただ一つ、美しいという状態が絶えず変化しているということです。もし私たちが何かを見て美しいと思うなら、その美しさが消えたとき、心も美しさをなくすでしょう。きれいなものがきれいでなくなると、心もきれいさを失うのです。きれいなものがなくなったり、壊れたり、傷ついたりすると、私たちは苦しみます。なぜならそれらを「自分のもの」と考えて、執着しているからです。お釈迦様はこう説かれました。「『ものごとは単に組み立てられて成り立っているものである』と見なさい」と。いま美しく咲いている花も、しばらくすると枯れます。このことを理解することが、智慧なのです。

そういうわけで、私たちは「無常」ということを理解しなければなりません。何かにたいして「きれい」と思うなら、そのときは「そうではない」と自分に言うべきですし、何かにたいして「汚い」と思うなら、そのときも「そうではない」と自分に言うべきです。常にこのようにものごとを見て、観察するようにしてください。そうすれば、現象のなかに真理が見え、不確かなもののなかに確かなものが見えるでしょう。


今日、私は「苦しみ」と「苦しみの原因」と「苦しみの滅」と「苦しみを滅する道」をどう理解するか、ということについて話しています。
苦しみを知ったなら、苦しみを捨てるべきです。
苦しみの原因を知って、苦しみを滅するべきなのです。
苦しみを滅するために、実践してください。
無常・苦・無我を理解することで、苦しみは滅するでしょう。

苦しみが滅したら、どうなるのでしょうか?
私たちはなんのために実践しているのでしょうか?
捨てる」ために実践しているのであって、何かを得るために実践しているのではありません。
今日の午後、ある女性が「自分は苦しいです」と私に言いました。私は彼女に「あなたはどうしたいんですか」と聞いたところ、彼女は「悟りを得たい」と言いました。私はこう言いました。「悟りを得たいと思っているかぎり、けっして悟ることはできませんよ。何も得ようとしないでください」

苦の真理を理解したとき、私たちは苦を捨てます
苦の原因を理解したとき、苦の原因をつくることはもうしませんし、代わりに苦を滅する道を実践するでしょう。苦を滅する道を実践するということは、「これは私ではない」「私のものでも、他のものでもない」と観察することです。このように観察することで、苦は滅するでしょう。これは、ゴールに到達して終わるようなものです。これが「滅」の状態です。

言い換えますと、進むことも苦ですし、後退することも苦ですし、止まることも苦です。進まず、後退もせず、止まることもない……何か残っているでしょうか? 身体と心の苦は、この時点で終わるのです。これが苦の滅です。理解するのはむずかしいですね。この教えを常に真剣に観察するなら、現象を乗り越えて悟りに到達し、「滅」という状態になるでしょう。これがお釈迦様の究極の教え、つまり解脱です。お釈迦様の教えは、すべてを捨てたところ(解脱)で修了するのです。

今日、私は皆様とご住職様に法話をしました。私が話したことの中に何か間違いがありましたら、お許しください。でも、法話が正しいか間違っているかとすぐに判断しようとせず、まず法話を聞いてください。たとえば、私が皆さんに「これはすごくおいしいですよ」と言って果物をあげるとしましょう。皆さんは私の言ったことをちゃんと聞くべきですが、信じてはなりません。なぜなら、まだ味わっていないのだから。

私の法話も同じです。皆さんが、私があげた果物が甘いか酸っぱいかを知りたければ、切って、ご自分で味わってみる必要があります。そうすれば、甘いか酸っぱいかがわかるでしょう。実際にご自分で試して実践してみたとき、私の法話を信頼することができるのです。この果物(法話)をすぐに捨てないでください。持って、味わって、自分で経験するのです。

皆さんもご存知でしょうが、お釈迦様には師匠がいませんでした。かつて、ある修行者がお釈迦様に「あなたの師匠はだれですか」とたずねたとき、お釈迦様は「私に師匠はいません」と答えられました。その修行者は頭を横にふりながら去って行きました。 (*注) お釈迦様は率直すぎたのかもしれません。お釈迦様は、真理を知らない人や受け入れない人にも真理を説いていたのです。

私が皆さんに、私の話をすぐに信じてはいけないと言ったのは、お釈迦様が次のように教えられたからです。
「明晰に理解していないのに、他人の話をすぐに信じてしまうことは愚かである」と。

それで、お釈迦様は「私に師匠はいません」とおっしゃったのです。
これは真実です。このように正しく見るべきでしょう。しかし、もし皆さんがこの意味を取り違えてしまったら、皆さんの先生にたいして敬意を払わなくなってしまいます。皆さんは「私に先生はいない」などと言わないようにしてください。善悪を教えてくれる先生の話をよく聞き、信頼し、そして自分自身で教えを実践して試すことが大切なのです。

今日は私たちにとって幸福な日です。私は皆さんと皆さんの先生にお会いすることができました。私たちは遠く離れたところに住んでいますので、このように会えるとは誰も思わなかったでしょう。会うことができたのは、何か特別な理由があるにちがいありません。お釈迦様は「生じたものには原因がある」と教えられました。このことを覚えておいてください。何か原因があるのです。おそらく私たちは前世で同じ家族の兄弟姉妹だったかもしれません。その可能性があります。他の先生はこちらに来ませんでした。来たのは、私です。どうしてでしょうか? 何か原因があるのです。さらに、今の瞬間も原因をつくっています。将来起こりうる原因をつくっているのです。

私は皆さんにお釈迦様の教え(真理)を残して行きます。皆さんが怠ることなく精進しますように――。真理を実践することほど優れた実践はほかにありません。真理は世の中の生命を支えています。人は真理を知らないために混乱しています。もし真理を理解するなら、心は充たされるでしょう。

今日、私は皆さんと皆さんの先生に真理の実践に関してお話する機会が持てたことを嬉しく思います。皆様が幸せでありますようにと心よりお祈りいたします。
明日、私はここを去ります。どこへ行くかはわかりません。来たら、行かなければなりませんし、出会ったら、別れなければなりません。これはごく普通のことであり、世の中のあり方です。世の中がいろいろ変化しても、皆さんは喜んだり怒ったりすべきではありません。楽しみがあれば、苦しみもあります。苦しみがあれば、楽しみもあります。得たら失い、失ったら得ます。世の中はこのようなものなのです。

お釈迦様の在世中、お釈迦様にたいして不満を抱く弟子たちがいました。というのも、お釈迦様は弟子たちに「怠らずに精進しなさい」と教えていましたから、怠け者の弟子たちはこのように言うお釈迦様を怖れ、ひどく嫌っていたのです。

お釈迦様が亡くなったとき、あるグループの弟子たちは「自分たちを導いてくれるお釈迦様がもういない」と嘆き悲しみました。彼らはまだそれほど智慧が育っていなかったのです。別のグループの弟子たちは「すべきこととしてはならないことを説くお釈迦様がいなくなった」と喜び、ほっとしました。また別のグループの弟子たちは、「生まれたものは自然の結果として消えていく」と冷静に真理を見ていました。このように、三つのグループがあったのです。皆さんはどのグループに共感できるでしょうか?

お釈迦様が亡くなったときに泣いた一番目のグループの弟子たちは、まだ真理を悟っていませんでした。二番目のグループの弟子たちは、自分たちがやりたいことをお釈迦様がいつも禁じられていたため、お釈迦様にたいして不快感を持っていました。彼らはお釈迦様に注意され叱られるのを怖れて生活していました。それでお釈迦様が亡くなったとき、ほっとしたのです。

これはお釈迦様だけに限ったことではありません。現代でも同じようなことがあります。こちらのお弟子さんたちが、お寺のご住職(先生)にたいして不快感を持っていることもありうるのです。表面には出さないかもしれませんが、心の中で反感を持っているかもしれません。煩悩のある人たちがそのような感情を持つのはごく普通のことです。お釈迦様にたいしてでさえ、反感を持つ人がいたのですから。私にも、私にたいして反感を持つ弟子たちがいます。私は彼らに悪い行為をやめるように言いますが、彼らは悪い行為が好きで、やめようとしません。彼らは私のことを嫌っています。このようなことはしょっちゅうあるものです。

智慧のある皆様が、お釈迦様の教えをしっかり実践することができますようにとお祈りいたします。

(この章終わり)

(*注) お釈迦様が悟りを開かれて間もなく、ベナレスへ向かって歩いているとき、一人の修行者が近づいてきて、このように言いました。「友よ、あなたの感官は澄み切っている。皮膚の色は清らかで美しい。あなたの師匠はだれですか?」と。お釈迦様は「私に師はなく、正覚者である」と答えました。修行者は納得できず「そうかもしれない」と頭を横にふりながら去って行きました。

真理とは

· 真理とは、四聖諦(苦集滅道)
苦諦:生きる事は苦という真理
集諦:苦の原因という真理
滅諦:苦の滅という真理
道諦:苦の滅を実現する道という真理(八正道) 

· 真理とは、苦、無常、無我

(書籍;調査中)

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(書籍:サンガジャパンVol. 6「震災と祈り」
「落ち着き」だけが「自分のもの」になる P170-176)

・仏教の真理は、ひと言で言えば「捨てる」

・仏教の、悟りのポイントは、ただそれだけなのです。
・仏教は突き詰めれば「捨てる」ということに尽きるのです。

・長老方、指導者たちは、いつでも「捨てたら楽」だということを言っているのです。
・お釈迦様も「私の物で無い物は、捨てなさい」と同じ言葉をずっと説かれます。

・仏教がポイントとする姿勢というのは、捨てて意欲だけ持つ、ということです。
・強力な意欲が必要です。  「やり抜く」という負けず嫌いが必要です。

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アーチャン・チャー長老 (法話:4つの聖なる真理)

出村佳子さんのHPより
http://homepage3.nifty.com/sukha/Ajhancha_4nobletruth_.html

≪抜粋≫
・真理は、私たちの身体と心にあります。
・身体と心を観察することが、冥想の本質なのです。
・身体と心を観察するとき、智慧が現われるでしょう。
・智慧があれば、何を見ても真理が見えます。

・「捨てる」為に実践しているのであって、何かを得る為に実践しているのではありません。
・苦の真理を理解した時、私達は、苦を捨てます。
・これが「滅」の状態です。

・これがお釈迦様の究極の教え、つまり解脱です。
・お釈迦様の教えは、すべてを捨てたところ(解脱)で修了するのです。

≪原文≫

真理を知りたいとき、どこを見ればいいのでしょうか?

身体と心を見るのです。
本棚の本を見るのではありません。
真理を本当に見たければ、自分自身の身体と心を見つめなければならないのです。
身体と心、この二つだけです。
心は肉眼で見えませんから、「心の眼」で見なければなりません。
真理を悟るには、まずどこを見るべきかということを知る必要があるのです。

身体の真理を知るには、身体を見なければなりません。

では、どうやって身体を観察するのでしょうか?
心で観察するのです。
身体と心以外どこを見ても真理は見えないでしょう。
なぜなら幸せも苦しみもまさに身体と心で生じるのだから。
幸せが木から生じたのを見たことがあるでしょうか?
川から生じたり、天気から生じたりしたのを見たことがあるでしょうか?
幸せも苦しみも、自分自身の身体と心から生じる感覚なのです。

したがって、お釈迦様は、自分の身体と心を理解するようにと教えられました。
真理は自分自身の身体と心にあり、まさにここを観察しなければなりません。
皆さんの先生は本を読みなさいと言うかもしれません。
本の中に真理があると思うなら、真理は決して理解できないでしょう。
本を読むときは、本の内容を自分の心で観察しなければなりません。
そうすれば、真理が理解できるでしょう。

真理はどこにあるのでしょうか?

真理は、私たちの身体と心にあります。
身体と心を観察することが、冥想の本質なのです。
身体と心を観察するとき、智慧が現われるでしょう。
智慧があれば、何を見ても真理が見えます。

常に無常(anicca)・苦(dukkha)・無我(anatta) が見えるのです。
Anicca は無常ということです。
Dukkha は苦のことで、ものごとは無常であるのに、その無常なるものに執着すると、苦が生じます。

なぜなら
ものごとはanatta ――「私」のものではありませんし、「私」ではないからです。

しかし、私たちは
この無常・苦・無我を見ていませんし、いつでも「私」とか「私のもの」と見ているのです。

中略

今日私は、「苦しみ」と「苦しみの原因」と「苦しみの滅」と「苦しみを滅する道」をどう理解するか、ということについて話しています。
苦しみを知ったなら、苦しみを捨てるべきです。
苦しみの原因を知って、苦しみを滅するべきなのです。
苦しみを滅するために、実践してください。
無常・苦・無我を理解することで、苦しみは滅するでしょう。

苦しみが滅したら、どうなるのでしょうか?
私達は、何の為に実践しているのでしょうか?
「捨てる」ために実践しているのであって、何かを得るために実践しているのではありません。

今日の午後、ある女性が「自分は苦しいです」と私に言いました。
私は彼女に「あなたはどうしたいんですか」と聞いたところ、彼女は「悟りを得たい」と言いました。

私は、こう言いました。「悟りを得たいと思っているかぎり、けっして悟ることはできませんよ。何も得ようとしないでください」

苦の真理を理解したとき、
私たちは苦を捨てます。

苦の原因を理解したとき、
苦の原因をつくることはもうしませんし、代わりに苦を滅する道を実践するでしょう。

苦を滅する道を実践する
ということは、
「これは私ではない」「私のものでも、他のものでもない」と観察することです。
このように観察することで、苦は滅するでしょう。
これは、ゴールに到達して終わるようなものです。

これが「滅」の状態です。

言い換えますと、
進むことも苦ですし、後退することも苦ですし、止まることも苦です。
進まず、後退もせず、止まることもない……何か残っているでしょうか?

身体と心の苦は、この時点で終わるのです。
これが苦の滅です。
理解するのはむずかしいですね。
この教えを常に真剣に観察するなら、現象を乗り越えて悟りに到達し、「滅」という状態になるでしょう。

これがお釈迦様の究極の教え、つまり解脱です。
お釈迦様の教えは、すべてを捨てたところ(解脱)で修了するのです。

2012年2月2日木曜日

真の八正道。 冥想実践


アーチャン・チャー長老
(書籍: 手放す生き方 P26)


仏教の伝統的な教えでは、八正道は、
正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八種から成ります。

しかし、真の八正道は
二つの目、二つの耳、二つの鼻孔、一つの舌、一つの身体という、私達自信の中にある物です。

これらの八つの門は、
私達の実践の全てであり、実践の道を歩む際の精神を表す物です。

これらの八つの門を
良く観察し、検討してみて下さい。

そうすれば、全てのダルマがそこに顕現する事でしょう。
この実践の核となる部分は、とてもシンプルな物です。
冗長な説明はありません。

欲や怒りへの執着を捨て、
只、あるがままであれば良いのです。

それが実践の全てです。

何かになとうとしてはいけません。
自分自身を何かに変えようとしてはいけません。
冥想者に成ってはいけません。
悟りを開いた人に成ろうとしてもいけません。

貴方が冥想をする時は、
あるがままにいて下さい。
貴方が歩く時も、あるがままにいて下さい。
何にも執着せず、何にも抵抗しないで下さい。

もちろん、実際には、サマーディを養うための数十種に及ぶ冥想のテクニックや、数多くの種類のヴィパッサナー冥想があります。

しかし、それらはいずれも
「全て、あるがままにいる」というこの原則へと戻ってくるのです。

お釈迦様は、人から何も見返りを期待していません

お釈迦様は、人から何も見返りを期待していません。

一人一人が幸福になる道を真剣に実践する事こそが、
師匠であるお釈迦様に対する本物の礼だ。とも説かれています。
(書籍:これでもう苦しまない。 P36)

2012年2月1日水曜日

パパンチャ(Papañca)とは

・パパンチャ(Papañca)とは、六処(眼耳鼻舌身)から入ってきたデータを感情で捏造して、自分だけに限った世界を作るという事。
・私達は瞬時にデータをねつ造する。
(施本:偉大なる人の思考-P110)

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・無明とはPapañcaの事。
(法話:パパンチャを破る-禅の物語(無門関)にちなんで)

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・Papañca(ねつ造)とNipapañca(幻覚を破る)の一対で仏道の全てを語っている。
(施本:偉大なる人の思考-P112)