2012年1月31日火曜日

仏道とは

・仏道とは、八正道の事です。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
・Appamādaは、三蔵経を包み込む程大きく、仏道そのものです。
(ダンマパダ21偈)

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
・Papañca(ねつ造)とNipapañca(幻覚を破る)の一対で仏道の全てを語っている。
(施本:偉大なる人の思考-P112)

Papañcaを解りやすく言えば、
私達は眼耳鼻舌身意の六処に入るデータを好き勝手に捏造(ねつぞう)する、そうして自分だけに限った世界を作るという事。
(施本:偉大なる人の思考-P110)

Papañcaは、真理、苦、悟り、智慧の話をする時に使われる。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

(CD: インドゥリア バーワナー(六根の冥想)
ヴィパッサナー冥想の極意)

中部経典 インドゥリア バーワナー スッタ (第152 感官修習経)
Majjhimanikāya 5.10 Indriya bhāvanā sutta

インドゥリア バーワナー スッタは、仏道を全て語っている。
http://appamado-amatapadam.blogspot.com/2012/02/blog-post_13.html

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
・善友がいる事、善友と一緒にいる事、善友と付き合う事によって、仏道の全てが完成するのです。
(根本仏教講義→26.人生改良計画 (6)善友は仏道の全て。 より)
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi152.html

2012年1月30日月曜日

無明とは。

(長老の語録より、文献名調査中)

四聖諦についての無智が無明
無明とは、
・苦についての無智
・苦の生起についての無智
・苦の滅尽についての無智
・苦の滅尽に至る道の無智
これを称して無明と言う。
即ち四聖諦についての無智が無明。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
(法話:パパンチャを破る-禅の物語(無門関)にちなんで) より

無明とは簡単に説明すると、
四聖諦を知らない。
因果法則を知らない。
事であるが、

難しく言うと、無明とは、
パパンチャ(Papañca:データのねつ造)の事です。

私達は瞬時にデータをねつ造する。
生きる事とは、動く事。 何故、動くかと言うと、感覚があるから、その感覚は苦で出来ている。 
苦が無いと生きていけない。
身体は、物凄く脆(もろ)い。 世の中でこれ程脆(もろ)い物はない。 それでも生きているでしょう。
苦があるから生きていられる。 苦しいからとにかく気をつける。
これが、バカバカらしいでしょう。 生きる事に何の価値も無いでしょう。 生きるとは苦一本でしょう。
なのに大事な物、尊い物、他を殺してでも守る物と思っている。 その上、永遠に天国があると思っている。
他の仏教では、阿羅漢(解脱)でも無い人達が極楽道を作ったり。 生きるべきである。 死ぬ事を認めたくない。 死んだら成仏して天国で永遠に生きる。 と説いているが、これも無明。

因果法則を解らない事も無明。

無明が無い生命はいない。
生命であるといった時点で、無明であると決まっている。
生命とは、生きる事は苦だから何にも執着する必要は無いと解った時点で、修行に入ると直ぐに悟る。

修行で、なかなか悟りに達しないという事は、無明を正当化している。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -


(アーチャン・チャー長老: 法話:四つの聖なる真理: 出村佳子さんのHPより)
http://homepage3.nifty.com/sukha/Ajhancha_4nobletruth_.html


無常を知らない事。
「物事が永遠であって欲しい」と考える事が無明であり、この無明をお釈迦様が発見され、教えられたのです。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

無明を捨て去る方法
無明を捨て去る方法は、苦の滅尽に至る道である八正道。
(長老の語録より、文献名調査中)

 → 無明を捨てる方法は、後日のブログで作成。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
(「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)→【71】 生きることは大変か/無明とは)
http://www.j-theravada.net/qa/gimon71.html

無明というのは、ものすごく巨大な暗黒状態、暗闇と考えるとよいでしょう。

その巨大な暗闇に、生命が覆われているということです。暗闇のなかにいると何も見えませんね。ですから我々は、何でも手探りで触って、何とか理解しなければなりません。
智恵という光があれば見えるのですが、人間にあるのは『知識』だけなのです。

知識というのは、ひとつのものについて、様々な意見が出てくるようなことです。
病気になったらどうすればいいのか、ガンになったら何を食べればいい、あれを食べればよい、これを食べればよいと、ありとあらゆることを言いますが、どれも完全じゃないんですね。答えは出ないのです。

知識というのは、暗闇のなかでものを触ってみる状態、そしてそれを無明というのです。もしすべてのものに答えが見つかったら、そこには無明はないのです。

生きている間に生まれてくる問題に答えを持つ人はいない。
それが無明だと理解していただければよいと思います。
無明というのは、我々がふつうに生きている世界のことです。

捨。中道とは、揺らがない心。「捨」

(根本仏教講義→8.苦集滅道 (2)仏陀の苦行から悟りまで)
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi39.html

中道の出発点は、何物にも囚われない心です。

≪抜粋≫
■お釈迦様が真理に出会うまで■
苦行の未、お釈迦さまは、とにかくこんなにからだを痛めつけても仕方がないのだと思いました。また逆に、贅沢しても仕方がないとも思いました。からだをいかにきれいに着飾ってもからだというものは、死んで、そして腐っていく。死んだら焼いてしまいます。いくら母親でも息子が死んでその遺体をずっととっておくことはしません。死んでしまったら捨てるしかありません。死んで捨ててしまうものに、贅沢させる必要はない、また痛める必要もない…。

そして、問題は心なのだということを知り、お釈迦様は心を清らかにする「中道」という方法を発見されたのです。
いわゆる何ものにもとらわれない、
食べ物にもとらわれず適度に食べる、人の言うこともそのまま信じず、自分で考えて判断する。言葉をしゃべるときは、必要な言葉を選んで話す。なんでもかんでも、中道にもっていく。それで悟りを開かれたのです。中道を悟ったのは1日だったという話です。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
私の所感です。
中道とは、揺らがない心。 即ち「捨」だと思い文献を調査しました。
結果、上記の長老の中道の出発転は、何物にも囚われない心です。 を見つけて、間違いでは無かったと思いました。
何故なら、囚われない心とは、揺れない心であるからです。
心が揺らがないとは、捨の実践であり、理性であり、Appamādaです。

後日)
下記のアーチャン・チャー長老の法話を読んで、私が理解した捨てる。は、正しい事が解りました。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
アーチャン・チャー長老 書籍:手放す生き方。 より

中道:(P27)
ブッダは、私達が「欲におぼれる道」と「苦行を行う道」と言う二つの両極端な道のどちらを歩む事も、良しとしていませんでした。  そうでは無く、ブッダは私達に「只、快楽に気付きなさい」と説いたのです。  怒り、不安、不満は、修行者の道では無く、俗世の人間の道です。  心の静まった人は、左脇に執着を捨て、右脇に恐れや嫌悪を捨て、正しい実践の道である中道を歩むのです。

実践の道を歩む人は、中道に従わなければ成りません。
それは、「私は、快楽にも苦痛にも興味を持ちません。 私は、それを捨て去ります。」と、言う事です。

ブッダが初転法輪を説いた時、これら二つの極端さに付いて語られました。
何故なら、ここに私達の執着の源があるからです。

幸福へ欲望が片方から蹴り飛ばし、苦しみや不満がもう一方から蹴り飛ばす。
この二つは、いつも私達を取り囲んでいるものです。
ですが、私達が中道を歩む時、貴方は、それらの両方を捨て去るのです。

中略

ブッダは、私達に、その極端さを捨てる事を説きます。
これこそが、正しい実践の道であり、生死から脱する道なのです。

2012年1月29日日曜日

仏教の最大の祝福とは、戒めです

仏教の最大の祝福は、戒めです。
(2012.1.8 新年祝福法要inマーヤーデーヴィー)

2012年1月28日土曜日

悟り と 解脱 の違い

・解脱 vimutti(ヴィムッティ)…脱する
・悟り bodhi(ボーディ)…目覚める

言語では、このような違いがあるようです。
輪廻から脱するという事で、その側面では解脱。
真理を発見し解ったということで、その側面では悟り。

マーヤーデービィ精舎事務局より
----------------------------------------

2012年1月27日金曜日

Appamādo amatapadaṃ

ブログのタイトルの意味は、「不放逸は不死の道なり」で、パーリ経典 ダンマパダ 21偈からもらいました。
Appamādo  Appamāda は、仏教徒にとっては大変重要な言葉で、不放逸という意味も含まれ、三蔵経がすっぽり入ってしまい仏道そのものです。

お釈迦様の最後の言葉も Appamāda を完成しなさいです。
不放逸は不死の道なり。
放逸こそ死の道なり。
不放逸の人は死ぬことはない。
放逸の人は死んでいるようなものである。

Appamādo amatapadaṃ,
不放逸は  不死の道
pamādo maccuno padaṃ;
放逸は  死の    道
Appamattā   na  mīyanti,
不放逸の人は ない 死な
ye   pamattā  yathā matā.
人は 放逸の人  如く  死の

2012年1月26日木曜日

究極の真理

解脱さえも無常である。 と言う事が、究極の真理。

2012年1月25日水曜日

仏教の最後の目的

仏教の最後の目的は「悟り」の「智慧」を得る事にあります。
(長老の語録より、文献名調査中)
冥想して、禅定して、「禅定さえも無常である」、と発見(智慧)したら悟る。
(四無量心の世界より)

また、究極の真理は、解脱さえも無常である。
(長老の語録より、文献名調査中)

-----マーヤーデーヴィー精舎事務局より
・解脱 vimutti(ヴィムッティ)…脱する
・悟り bodhi(ボーディ)…目覚める
輪廻から脱するという事で、その側面では解脱。
真理を発見し解ったということで、その側面では悟り。

2012年1月24日火曜日

慈悲は仏教の土台

・慈悲は、仏教の土台です。
・慈悲で「心」を育てなければ、幾ら「真理」を理解しても、「智慧」を発見できず、「仏教」を理解できない。
慈悲の心は、道徳であり、即ち五戒が完成する。五戒とは戒律の事。

戒律は仏教の土台であり、その上に禅定(集中力)が生まれ、智慧を発見する。
戒律を守らないと、正しい禅定が生まれず、真理を理解しても、悟りの智慧は発見出来ない。

戒定慧(三学)
戒は、五戒の事。 仏教の土台。
定は、禅定の事。 仏教の骨組み。 集中力が高まった状態である。
慧は、智慧の事。 智慧は禅定して発見する物。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
■HPの「慈悲の冥想」の説明で長老が以下の話をされておられます。
仏教を実践する上で、土台となる心を育てる
全ての仏道修行において基礎になるもの
「私」を発見する以前に、生命に対する「やさしい心」というのは、 大変必要な条件になります。
http://www.j-theravada.net/3-jihi.html

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
■HPの「法の宝【1】<丸太のたとえ-1> ウィセッタ長老」より
戒律(sîra) は道徳であり、根本的な、いわば土台です。集中力、禅(samâdhi)は戒律の土台の上に建てられるものです。智慧(paññâ)、すなわち洞察と悟りは、正しく集中に励むことによって生まれるものです。この「戒律」「集中」「智慧」によってなるこの八正道を成長させる
http://www.j-theravada.net/dhamma/hou-no-takara1.html

≪所感≫
戒律とは五戒の事であり、道徳の事ですので、長老が四無量心の法話の中で言われていた、慈悲は道徳であり即ち五戒が完成する。です。
また、三学は仏教そのものと理解しております。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
■長老の語録より、文献名調査中
「慈悲」で「心」を育てなければ、幾ら「真理」を理解しても、「智慧」を発見できず、「仏教」を理解できない。

2012年1月23日月曜日

仏教の2大要素は、慈悲と真理

慈悲、智慧の説明としては、全く足りません、今後、更新していきます。

■仏教の2大要素
1.慈悲の心を育てる。
2.真理の発見。

■慈悲とは
慈悲喜捨(四無量心)の事
1) 慈:Mettā(メッター) 友情のような優しさ 
2) 悲:Karunā(カルナー) 他者の苦しみをなくしてあげたいという優しさ 
3) 喜:Muditā(ムディター) 他者の幸福を共に喜ぶ優しさ 
4) 捨:Upekkhā(ウペッカー) 差別のない広々した平等な心でいる優しさ 

≪生き方≫
慈悲とは、人がどの様に生きれば良いか?
という質問に対する お釈迦様 の答えです。

≪エゴを消す≫
慈悲の冥想をする度にエゴが消えていく。

≪仏教の土台≫
慈悲は、仏教の土台であり、
慈悲が育っていないと、言葉で真理を理解しても、
正しい禅定が作れず、悟りの智慧が生まれません。

≪心と身体を清める唯一の方法≫
「この体で犯した罪は、この世で償って、あの世には
持って行きません」と、思うならば、
(mettā cetovimutti)「慈悲心解脱」を実践するのです。
※心解脱(慈悲)、慧解脱(ヴィパッサナー)

≪罪からの解放≫
罪を悔い改め、心清らかにしたければ慈悲の瞑想しかない。
慈悲の瞑想をすれば恩赦になる。【異熟】

≪悟る≫
慈悲でエゴが消えたら不還果の「悟り」です。
この世で、完全に解脱に達することができなかった場合でも、
二度と、この世に戻れない境地である、不還果に生まれるのです。 

■真理とは
・真理とは、四聖諦
・真理とは、苦、無常、無我
・心と身体に真理がある。

2012年1月22日日曜日

仏教は、信仰では無く、理解して確信する。

仏教用語の「信」は、只、言われたことを無条件に信じる信仰ではありません。
理性でもって、確り、確かめて、確信する。です。
お釈迦様の教えを、
  • 頭で理解して
  • 調査して
  • 納得して
  • 実践して
  • 思考を止めて
  • 観察して
  • 禅定して
  • 発見して
  • 悟る
----------------------------------------

2012年1月21日土曜日

仏教を学ぶ上で注意する事

・理性で、説法の内容を分析する事。
(明晰に理解していないのに、他人の話を、すぐに信じてしまうことは愚かである)
・自分が実践していない事を、他人に説いてはいけない。
・物知り屋だと他人に褒めて貰いたくて学んではいけない。
・只の知識欲に刺激を与える為に学んではいけない。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

プッタタート比丘(三蔵の中のダイヤモンド)より抜粋
http://space.geocities.jp/tammashart/book-sanzou.html

「カーラーマ経」には、仏教を信奉する上での自由が述べられています。
(1)長く言い伝えて来たからといって信じてはいけ無い。
(2)長く伝承されてきたからといって信じてはいけ無い。
(3)評判になっているからといって信じてはいけ無い。
(4)教本の中にあるからといって信じてはいけ無い。
(5)誰かの教えが論理的に正しくても、その理論自体が誤りであったり、理論の用い方が誤っている事もあるので、直ぐには信じてはいけ無い。
(6)意味的に理論に合っているからといって信じてはいけ無い。
(7)常識と呼ばれる気軽に考える習慣に従って信じてはいけ無い。
(8)自分の見解に耐えられるからといって信じてはいけ無い。
(9)話す人の言葉や態度が信頼できそうだからといって信じてはいけ無い。
(10)話しているサマナ(出家)が自分の先生でも信じてはいけ無い。

これを良く理解して、いま挙げた十の理由で、簡単に信じてしまわ無い様にして下さい。
しかし、ここで申し上げたいのは、ブッダは、先に挙げた十種類の物に関わるなと禁じてはいません。
十分熟慮する資料として、話を聞いてもいいし、噂を聞いてもいいのです。
しかし直ぐには信じ無いで、それで
苦を無くす事が出来るかどうか熟慮して、
もし苦しみが無くなりそうなら、取りあえず実践してみて、
真実である事が証明されてから、
それから信じなさいと教えています。

2012年1月20日金曜日

スマナサーラ長老との出会い。

今まで苦労して積み重ねて来た人生を、身内に根底からひっくり返され、家族と財産を含めて全てを失った10日後の2010年1月2日に梅田の紀伊国屋書店で「怒らないこと」に出会い、人生で培った私の常識、思考が根底から間違っていた事を叩きつけられました。

私に欠落していた物は、慈しみと理性です。

お釈迦様に、生命としての道を照らして頂きました。
無明を引きずりながら前に進んで、生命として精進して参ります。

この本に出会っていなければ、今ここに、私は居ません。

- 生きとし生けるものに悟りの光が現れます様に。 -

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

2011年12月11日
マーヤーデービー精舎から新大阪駅まで、長老の車に同席させて頂き、大変貴重な時間を頂きました。