2013年3月30日土曜日

2012年5月18日金曜日

心を見つめるとは

(「瞑想のすすめ」ランチュアン イントラカムヘン尼著、訳tammashart:より)

心を見つめるとは、
心の中に生じる感情を観察する事

心が何を感じているのか、
涼しいと感じたら、それは涼しいという感情が生まれたのです。
それが心の自然な状態です。

それでは、暑かったり寒かったりは、何から生じるのでしょう。
或いは、痛い、苦しい、興奮、喜び等は、何から生まれるのでしょう。

何が、そういった感情を起こさせるのかを辿って行くと、
それは、「考え」から生まれているのが分かります。

浮かんだ考えは頭の中を駆け巡っています。
その考えが正しければ、心は清々しく、
その考えが間違っていれば、心は憂鬱になります。

だから、心に付いて学ぼうと思う時、何も見えず、何をどう学んで良いか分からないのです。

2012年4月24日火曜日

捨:執着を捨てる事が解脱

(安らぎへの道は険しくない)より
http://www.j-theravada.net/howa/howa165.html

「すぐ解脱に達しますよ」と釈尊に言われても、実際に、解脱に達する人は少ないのも事実です。

それは人々の理解能力の問題です。
生きることは苦である、という真理を認めたくはないのです。
何を言われても、生きることでいろいろ楽しみがあるのではないかと、思っている。
それで、生きることに執着するのです。

執着を捨てることが、解脱です。

「執着を捨てたくないが、ブッダの教えはありがたい。
実践したい」と言っても矛盾があります。
ブッダの説かれた「生きることは苦である」という真理を否定しているのです。
その真理を否定すると、「解脱は最高の幸福である」という真理も否定しているのです。

冥想をしてもサマーディに達しない、気づきの実践をしても解脱に達しないケースが、釈尊の時代でもあったのです。
釈尊がその理由を解明するのです。

サマーディに達するためには、五欲を捨てなくてはならない。
解脱に達するためには、一切の物事に対する執着を捨てなくてはならない。
しかし、生きること(五蘊)で、楽しみがあるのだと思うと、捨てられないのです。

ですから修行者は、五蘊から得られる利点は何なのか、
五蘊により生じる欠点は何なのかと、
ありのままに観察して発見する必要があるのだと説かれています。

生きることで、見る楽しみ、味わう楽しみなどがあります。
それは、その情報に触れて生れる感覚は楽だと理解したからです。
その感覚も、情報も、無常で一時的です。
感覚に執着すると、限りのない苦しみが付いてきます。

このような理解があったうえで、冥想実践すると、間もないうちに解脱に達するのです。

2012年4月8日日曜日

問題は、たった一つだけ。妄想する事

(“言葉の力”と実況中継)より

意味を理解できない呪文自体に効き目は全く無い。
それは、迷信。
言葉に力は無い。
言語は、道具。

言葉によって、一部の感情が上がってくる。
言葉に力が在るのではなくて、心のエネルギーに力がある。

人間は、言葉を道具として使っている。
人間は、言葉で感情の管理ができる。
言葉を聞くと、心の中の感情がかき混ぜられて爆発する。

生命の問題は、たった一つ
妄想する事。
それさえ無ければ、全てOK

人間は、言葉で妄想する。

普段、歩きながら等、行動しながら絶えず妄想する。
妄想により自己破壊のエネルギーが入って来る。

だから、妄想出来ない状況を作る。
実況中継により思考を止める。
(スマナサーラ長老の教える、ヴィパッサナー冥想の方法。長老により方法が違う)
実況中継する事で妄想出来なくなる。
今の瞬間に生きる。

続けていけば心は治る。
本来、心は瞬間で治る。
訓練して、頭が、心が、綺麗になって、活発に動くようになる。

言葉を聞くと、心の中の感情がかき混ぜられて爆発する。

自分に怒り等の感情が無ければ、人が言うことに意味が無くなる。
人が、馬鹿にしても、何とも思わ無い。

2012年3月31日土曜日

第一回 摂津勉強会

本日から、大阪府の摂津で勉強会が始まりました。
(高槻市立総合市民交流センター 3F)

勉強会で、私が頂いた実りです。

(1)捨てる。と、手放す。
(2)この瞬間を意識する。
私は、正月のアラナの宿泊冥想会に参加で、溢れる程の実りを
頂きました。

その後、
「24時間、心と身体の観察して、心が揺れた瞬間に捨てる。
この呼吸を吐き終わるまでに死ぬかも知れない。」
(※絶えず、死を意識する事も、Appamādaです。:プッタタート比丘)
という、訓練をしており、
今、この瞬間瞬間の苦しみからの解放を実感しております。

また、美しい、楽しいと感じて、心は揺れても、
終了宣言をして、対象に執着しない訓練もしております。

「手放すとは、エネルギーを解放する。」
との話を頂き、また一つ苦の滅尽の理解が深まりました。
(捨てる。と、手放す。は同じ事と、理解しています。)

私が、心が揺れた瞬間に捨てていたのは、エネルギーである事。
また、エネルギーを手放す事をイメージする事でも
瞬間瞬間の苦の滅尽になる事を理解しました。

更に、「意識する(瞬間瞬間)という言葉を使う」と
再認識の機会を頂き、より観察が深まりました。

ですから、今は、
24時間、
"この瞬間を意識して"心と身体を観察し、
心が揺れた瞬間に”エネルギーを開放(または手放)して”捨てる。
この呼吸を吐き終わるまでに死ぬかも知れない。
と、訓練をしております。

お陰様で、更に、今、この瞬間の苦しみからの解放を実感しております。

(3)幸せとは、この瞬間、苦しまない。
今、この瞬間の心の揺れを捨てて来ましたが、
幸せとは、この瞬間、苦しまない。
との言葉を聞いて、
私の日々の訓練が正しかった事の答え合わせが出来て
良かったです。

(4)無我とは、命の壁が無くなること
アラナの冥想会で実践した中で、経験した事が、
無我に触れた事である事も、解りました。
・生きとし生けるものの中に、私が入ってしまった。
・他の生命の命と私の命の境が無くなった。
・他の生命の苦しみと私の心の境が無くなった。

また、今回の勉強会では、偶然が重なりました。
・私の誕生日
・勉強会第一回目
・高槻駅近辺は、離れて暮らす娘との大阪で唯一の思い出の場所であり、
今、娘が暮らしている場所

摂津にブッダの教えを益々広げていき、
将来、娘が慈しみと理性を学ぶ場所になることを願っています。

生きとし生けるものに悟りの光が現れます様に。
捨(Upekkhā:意:冷静に観察する事

2012年3月2日金曜日

捨:心は一瞬で変わる

家族と財産を失った10日後の2010年の1月2日に長老の「怒らないこと」と出会い、1ヶ月間、毎日、毎日、何度も、何度も読み返しました。
オーディオブックも購入し、もっと理解したくて、倍速版までも購入しました。
今までに軽く50回は聞いているでしょう。
いや、100回は聞いているかも。

本と出会った2週間後の1月15日頃に、家族に騙された事に怨み、布団の中で悔し涙が止めども無く流れていた。



「涙は、怒りだ」と、思った瞬間に。
けろっとして、何事もなかったように、全く普通の感情に戻った。

何なんだこれは?

心は、一瞬で変わると。理解した。
涙は、妄想、捏造である事も、理解した。

2012年2月29日水曜日

仏教の精髄

プッタタート比丘(三蔵の中のダイヤモンド)より抜粋
http://space.geocities.jp/tammashart/book-sanzou.html

仏教の精髄とは何でしょうか。
それは、

サッペー タンマー ナーラン アピニヴェサーヤ
Sabbe dhammā nālaṃ abhinivesāyā
何物も、私、私のものと執着するべきではない

というブッダの言葉です。
これが三蔵の中のたった一粒のダイヤモンドです。
それが拡大されていろんな形になりました。

ブッダは
「誰も私は、私の、ということにこだわるべきではない、
という言葉を聞いた人は、仏教のすべてを聞いた人であり、
執着しないために実践する人は、仏教のすべての実践をする人であり、
執着しない実践の結果を受け取る人は、仏教のすべての実践の結果を受け取る人である」
と言っています。